・・・ と、枕だけ刎ねた寝床の前で、盆の上ながらその女中――お澄――に酌をしてもらって、怪しからず恐悦している。 客は、手を曳いてくれないでは、腰が抜けて二階へは上れないと、串戯を真顔で強いると、ちょっと微笑みながら、それでも心から気の毒・・・ 泉鏡花 「鷭狩」
・・・ と張合のない男で、お役替だと云えば御恐悦でございますとか、お目出度いぐらいの事は我々でも陳べますが、七兵衞は面倒だというので、只へえへえという、誠に張合抜がいたします。殿「何うだ見せようか」七「見たって仕様が有りません」殿・・・ 著:三遊亭円朝 校訂:鈴木行三 「梅若七兵衞」
・・・ろくな仕事もしていない癖に、その生活に於いて孤高を装い、卑屈に拗ねて安易に絶望と虚無を口にして、ひたすら魅力ある風格を衒い、ひとを笑わせ自分もでれでれ甘えて恐悦がっているような詩人を、自分は、底知れぬほど軽蔑しています。卑怯であると思う。横・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・二人づれで私のところにやって来ると、ひとりは、もっぱら華やかに愚問を連発して私にからかわれても恐悦の態で、そうして私の答弁は上の空で聞き流し、ただひたすら一座を気まずくしないように努力して、それからもうひとりは、少し暗いところに坐って黙って・・・ 太宰治 「散華」
・・・んこうむる、あるじ勘定をたのむ、いくらだ、とわれを嘲弄せんとする意図あからさまなる言辞を吐き、帰りしなにふいと、老人、気をつけ給え、このごろ不良の学生たちを大勢集めて気焔を揚げ、先生とか何とか言われて恐悦がっているようだが、汝は隣組の注意人・・・ 太宰治 「花吹雪」
・・・助七は、それでも、恐悦であった。「僕は、しつれいしましょう。」青年は、先刻から襖にかるく寄りかかり、つっ立ったままでいた。「そう?」さちよは、きょとんとした顔つきで青年を見上げ、煙草のけむりをふっと吐いた。「御自重なさいね。僕は・・・ 太宰治 「火の鳥」
・・・と碌さんは大恐悦である。「そんなにおかしいか」「おかしいって、誰に聞かしたって笑うぜ」「そんなに有名な男か」「そうさ、荒木又右衛門じゃないか」「だから僕もどこかで聞いたように思うのさ」「そら、落ち行く先きは九州相良っ・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・ところが細君は恐悦の余り、夜会の当夜、踊ったり跳ねたり、飛んだり、笑ったり、したあげくの果、とうとう貴重な借物をどこかへ振り落してしまいました。両人は蒼くなって、あまり跳ね過ぎたなと勘づいたが、これより以後跳方を倹約しても金剛石が出る訳でも・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・ 何だか世の中が味気なくて早く死んでしまいたいと云って居る人でさえ、いざ死ぬ時が来たと云って大恐悦で、何の悲しみなしに死ぬ人はないだろう。が、悲しみがなくて死ねる人は頭が死んで居るから、悲しくなくて、死ねるのである。 私など、今・・・ 宮本百合子 「熱」
出典:青空文庫