・・・ 昔の下級士族の家庭婦人は糸車を回し手機を織ることを少しも恥ずかしい賤業とは思わないで、つつましい誇りとしあるいはむしろ最大の楽しみとしていたものらしい。ピクニックよりもダンスよりも、婦人何々会で駆け回るよりもこのほうがはるかに身にしみ・・・ 寺田寅彦 「糸車」
・・・もちろんそれに関して私のこれまでに得た研究の結果は、学界に対する貢献としては誠に些細なお恥ずかしいものであったであろうが、ただ自分だけでは、自分自身の多年の疑問の中の少部分だけでも、いくらかそれによって明らかにすることが出来たと思うことに無・・・ 寺田寅彦 「家庭の人へ」
・・・そのころにはこういうものは、「西洋人に見られると恥ずかしい野蛮の遺習」だというふうに考えられて、公然とはできないことになっていたように記憶する。それでも、都会離れたこの浦里などでは、暗いさびしい貴船神社の森影で、この何百年前の祖先から土の底・・・ 寺田寅彦 「沓掛より」
・・・ふと気が付いて見るといつの間に這入って来たか枕元に端然とこの岡村先生が坐っていたので、吃驚してしまって、そうして今の独語を聞かれたのではないかと思って、ひどく恥ずかしい思いをした。しかし何を言っていたかは今少しも覚えていない。ただ恥ずかしか・・・ 寺田寅彦 「追憶の医師達」
・・・考えてみると恥ずかしい事である。その時に私は二十三歳であった。ケーベルさんもまだそう老人というほどでもなかった。 それきりで私は二度と会って話をした事はない。ただその後に一度駿河台の家へ何かの演奏会の切符をもらいに行った事がある。その時・・・ 寺田寅彦 「二十四年前」
・・・ この仮説が確かめられる時は、自分の神経の弱さ、腹の弱さ、臆病さの確かめられる時であるというのはきわまりなく不愉快な恥ずかしい事である。しかし同時にその弱さの素因がいくらか科学的につきとめられて従ってその療法の見当がつくとすれば、それは・・・ 寺田寅彦 「笑い」
・・・ 私だってまだ少年だから恥ずかしい。はじめのうちは、往来のあとさきを見廻して、だれもいないのを見とどけてから、こんにゃはァ、と小さい声で、そッと呟やいたものだった。しかしだれもいないところでふれたって売れる道理はないのだから、やっぱりみ・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・ ここで繰り返していうのもお恥ずかしい訳ですが、私はその時、君などの講義をありがたがって聴く生徒がどこの国にいるものかと申したのです。もっとも私の主意はその時の大森君には通じていなかったかも知れませんから、この機会を利用して、誤解を防い・・・ 夏目漱石 「私の個人主義」
・・・お前はもう立派な人になったんだから、りすなんか恥ずかしいのです。ですからよく気をつけてあとで笑われないようにするんですよ」 ホモイが言いました。 「おっかさん。それは大丈夫ですよ。それなら僕はもう大将になったんですか」 おっかさ・・・ 宮沢賢治 「貝の火」
・・・「お恥ずかしい事を申し上げなくてはなりませぬが、わたくしは今日まで二百文というお足を、こうしてふところに入れて持っていたことはございませぬ。どこかで仕事に取りつきたいと思って、仕事を尋ねて歩きまして、それが見つかり次第、骨を惜しまずに働きま・・・ 森鴎外 「高瀬舟」
出典:青空文庫