・・・ 彼は――堀川保吉はもう一度あのお嬢さんに恬然とお時儀をする気であろうか? いや、お時儀をする気はない。けれども一度お時儀をした以上、何かの機会にお嬢さんも彼も会釈をし合うことはありそうである。もし会釈をし合うとすれば、……保吉はふとお嬢さ・・・ 芥川竜之介 「お時儀」
・・・今人は少数の専門家を除き、ダアウインの著書も読まぬ癖に、恬然とその説を信じている。猿を先祖とすることはエホバの息吹きのかかった土、――アダムを先祖とすることよりも、光彩に富んだ信念ではない。しかも今人は悉こう云う信念に安んじている。 こ・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・しかし僕はどう考えても、今更恬然とK君と一しょにお時宜をする勇気は出悪かった。「もう何年になりますかね?」「丁度九年になる訣です。」 僕等はそんな話をしながら、護国寺前の終点へ引き返して行った。 僕はK君と一しょに電車に乗り・・・ 芥川竜之介 「年末の一日」
・・・今や迂拙の文を録し、恬然として愧ずることなし。警戒近きにあり。請う君これを識れと。君笑って諾す。すなわちその顛末を書し、もって巻端に弁ず。 明治十九年十二月田口卯吉 識 田口卯吉 「将来の日本」
・・・画人ハ背景ヲ描カンガタメニ俳優ノ鼻息ヲ窺ヒ文士ハ書賈ノ前ニ膝ヲ屈シテ恬然タリ。余ヤ性狷介固陋世ニ処スルノ道ヲ知ラザルコト匹婦ヨリモ甚シ。今宵適カツフヱーノ女給仕人ノ中絃妓ノ後身アルヲ聞キ慨然トシテ悟ル所アリ。乃鉛筆ヲ嘗メテ備忘ノ記ヲ作リ以テ・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・と、木村は恬然として答えた。 木村が人にこんな事を言われるのは何遍だか知れない。この男の表情、言語、挙動は人にこういう詞を催促していると云っても好い。役所でも先代の課長は不真面目な男だと云って、ひどく嫌った。文壇では批評家が真剣でないと・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・ 宇平の態度は不思議に恬然としていて、いつもの興奮の状態とは違っている。「そうでしょう。神仏は分からぬものです。実はわたしはもう今までしたような事を罷めて、わたしの勝手にしようかと思っています」 九郎右衛門の目は大きく開いて、眉が高・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・妻で」恬然として仲平は答えた。「はあ。ご新造さまは学問をなさりましたか」「いいや。学問というほどのことはしておりませぬ」「してみますと、ご新造さまの方が先生の学問以上のご見識でござりますな」「なぜ」「でもあれほどの美人で・・・ 森鴎外 「安井夫人」
・・・それに安んじて恬然としていなくてはならない。それが出来ぬとしたら、己はどうなるだろう。独りで煩悶するか。そして発狂するか。額を石壁に打ち附けるように、人に向かって説くか。救世軍の伝道者のように辻に立って叫ぶか。馬鹿な。己は幼穉だ。己にはなん・・・ 森鴎外 「余興」
出典:青空文庫