・・・ 婆さんがこう言ったと思うと、息もしないように坐っていた妙子は、やはり眼をつぶったまま、突然口を利き始めました。しかもその声がどうしても、妙子のような少女とは思われない、荒々しい男の声なのです。「いや、おれはお前の願いなぞは聞かない・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・しかも自分とはあまりにかけ離れたことばかり考えているらしい息子の、軽率な不作法が癪にさわったのだ。「おい早田」 老人は今は眼の下に見わたされる自分の領地の一区域を眺めまわしながら、見向きもせずに監督の名を呼んだ。「ここには何戸は・・・ 有島武郎 「親子」
・・・それで息遣がせつなくなって、神経が刺戟せられる。「うん。すぐだ。」不機嫌な返事をして、神経の興奮を隠そうとしている。さて黒の上衣を着る。髯を綺麗に剃った顋の所の人と違っている顔が殊更に引き立って見える。食堂へ出て来る。 奥さんは遠慮・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・下に寝ねたるその妻、さばかりの吹降りながら折からの蒸暑さに、いぎたなくて、掻巻を乗出でたる白き胸に、暖き息、上よりかかりて、曰く、汝の夫なり。魔道に赴きたれば、今は帰らず。されど、小児等も不便なり、活計の術を教うるなりとて、すなわち餡の製法・・・ 泉鏡花 「一景話題」
・・・省作は知らず知らずため息が出る。 省作が自分の座へ帰ってくると、おはまはじいっと省作の顔を見て何か言いたそうにする。省作はあわてて、「はま公、芋の残りはないか。芋がたべたい」「ありますよ」「それじゃとってくろ」 それから・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・下に集って脇明から入って来る風のさむいのもかまわず日のあんまり早く暮れてしまうのをおしんで居ると熊野を参詣した僧が山々の□(所を越えてようやくようよう麓のここまで下って来てこの一群の子供達のそばに来て息も絶え絶えの様な声をして「人の住んで居・・・ 著:井原西鶴 訳:宮本百合子 「元禄時代小説第一巻「本朝二十不孝」ぬきほ(言文一致訳)」
・・・一つは、そこの家族を安心させるためであったが、もし出来ない返事が来たらどうしようと、心は息詰まるように苦しかった。「………」吉弥もまた短い手紙を書きあげたのを、自慢そうだ――「どれ見せろ」と、僕は取って見た。 下手くそな仮名文字・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・牛島の梵雲庵に病んでいよいよ最後の息を引取ろうとするや、呵々大笑して口吟んで曰く、「今まではさまざまの事して見たが、死んで見るのはこれが初めて」と。六十七歳で眠るが如く大往生を遂げた。天王寺墓域内、「吉梵法師」と勒された墓石は今なお飄々たる・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・なんだか女学生が、今死んでいるあたりから、冷たい息が通って来て、自分を凍えさせるようである。たった今まで、草原の上をよろめきながら飛んでいる野の蜜蜂が止まったら、羽を焦してしまっただろうと思われる程、赤く燃えていた女房の顳が、大理石のように・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・みんなは、息を潜めて黙って、その音に耳を傾けたのです。すると、ひづめの音は、だんだんあちらに遠ざかっていきました。 しばらくすると、こんどは、あちらから、こちらへ、カッポ、カッポと鳴り近づくひづめの音が聞こえました。つづいて入り乱れた幾・・・ 小川未明 「赤い姫と黒い皇子」
出典:青空文庫