・・・ちょっと見ると一と息で登れそうな気がするが、上り口の立て札には頂上まで五時間を要し途中一滴の水もないと書いてある。誘惑にはうっかり乗れない。 第一日には頂上までの五分の一だけ登って引返し、第二日目は休息、第三日は五分の二までで引返し、第・・・ 寺田寅彦 「浅間山麓より」
・・・「兵隊にいっていた息子さんは、幾歳で亡くしましたね。」上さんは高い声で訊いた。「忰ですかね。」爺さんは調子を少し落して俛いた。「二十三でしたよ。」「戦地でかね。」と主が訊ねた。「何に、戦地じゃねえがね。それでも戦地で・・・ 徳田秋声 「躯」
一 善ニョムさんは、息子達夫婦が、肥料を馬の背につけて野良へ出ていってしまう間、尻骨の痛い寝床の中で、眼を瞑って我慢していた。「じゃとっさん、夕方になったら馬ハミだけこさいといてくんなさろ、無理しておきたら・・・ 徳永直 「麦の芽」
・・・わたしは夕飯をすましてから唖々子を訪おうと九段の坂を燈明台の下あたりまで降りて行くと、下から大きなものを背負って息を切らして上って来る一人の男がある。電車の通らない頃の九段坂は今よりも嶮しく、暗かったが、片側の人家の灯で、大きなものを背負っ・・・ 永井荷風 「梅雨晴」
・・・音なくて颯と曇るは霧か、鏡の面は巨人の息をまともに浴びたる如く光を失う。今まで見えたシャロットの岸に連なる柳も隠れる。柳の中を流るるシャロットの河も消える。河に沿うて往きつ来りつする人影は無論ささぬ。――梭の音ははたとやんで、女の瞼は黒き睫・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・例の放蕩息子を迎えた父のように、いかなる愚人、いかなる罪人に対しても弥陀はただ汝のために我は粉骨砕身せりといって、これを迎えられるのが真宗の本旨である。『歎異抄』の中に上人が「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずればひとへに親鸞一人がためなりけ・・・ 西田幾多郎 「愚禿親鸞」
・・・ 戦慄から、私は殆んど息が止まり、正に昏倒するところであった。これは人間の住む世界でなくて、猫ばかり住んでる町ではないのか。一体どうしたと言うのだろう。こんな現象が信じられるものか。たしかに今、私の頭脳はどうかしている。自分は幻影を見て・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・そして極めて微かに吐息が聞えるように思われた。だが、そんな馬鹿なこたあない。死体が息を吐くなんて――だがどうも息らしかった。フー、フーと極めて微かに、私は幾度も耳のせいか、神経のせいにして見たが、「死骸が溜息をついてる」とその通りの言葉で私・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・吉里の眼にはらはらと涙が零れると、平田はたまらなくなッてうつむいて、深く息を吐いて涙ぐんだ。 西宮は二人の様子に口の出し端を失い、酒はなし所在はなし、またもや次の間へ声をかけた。「おい、まだかい」「ああやッと出来ましたよ」と、小・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・しかも田舎にて昔なれば藩士の律儀なる者か、今なれば豪家の秘蔵息子にして、生来浮世の空気に触るること少なき者に限るが如し。これらの例をかぞうれば枚挙にいとまあらず。あまねく人の知るところにして、いずれも皆人生奇異を好みて明識を失うの事実を証す・・・ 福沢諭吉 「経世の学、また講究すべし」
出典:青空文庫