・・・ 口気酒芬を吐きて面をも向くべからず、女は悄然として横に背けり。老夫はその肩に手を懸けて、「どうだお香、あの縁女は美しいの、さすがは一生の大礼だ。あのまた白と紅との三枚襲で、と羞ずかしそうに坐った恰好というものは、ありゃ婦人が二度と・・・ 泉鏡花 「夜行巡査」
・・・二人が少しも隔意なき得心上の相談であったのだけれど、僕の方から言い出したばかりに、民子は妙に鬱ぎ込んで、まるで元気がなくなり、悄然としているのである。それを見ると僕もまたたまらなく気の毒になる。感情の一進一退はこんな風にもつれつつ危くなるの・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・軒下には窶れた卅五六の女が乳飲児を負って悄然と立って車について行く処であった。其の日から、其の家の戸が閉って貸家となった。何処に行ったか知らない。『あの乳飲児は、誰の児だろうか?』と私は考えた。・・・ 小川未明 「ある日の午後」
・・・母にこう言われて、彼女もさすがに悄然とした気持で帰ってきたのだった。 産婆の世話で、どこかの病院かで産まして、それから下宿の下の三畳の部屋でもあてがって、当分下宿で育てさせる――だいたいそうと相談をきめてあったのだが、だんだん時期の切迫・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・語調が哀れで悄然としていた。唇が動くにつれて、鰌髭が上ったり下ったりした。返事は露西亜語で云われたが、彼には意味がとれなかった。「どうして、こんなところへやって来たんだ?」 彼は、また露西亜語できいた。老人は不可解げに頸をひねって、・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・ 三十分ほどたつと、彼は手ぶらで、悄然と反対の方から丘を登り、それから、兵営へ丘を下って帰って来た。ほかの者たちは、まだ、ぺーチカを焚いている暖かい部屋で、胸をときめかしている時分だった。「ああ、もうこれでやめよう!」彼は、ぐったり・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・ 軍医の声は、看護長の物々しさに似ず、悄然としていた。 負傷者は、一寸見当がつかなかった。なんでもないことのようであもあり、又、非常な突発事件のようでもあった。彼等は乗込んだ橇から暫らく立上ろうとしなかった。そこらにいた看護卒も軍医・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・これを聞いていた源三はしくしくしくしくと泣き出したが、程立って力無げに悄然と岩の間から出て、流の下の方をじっと視ていたが、堰きあえぬ涙を払った手の甲を偶然見ると、ここには昨夜の煙管の痕が隠々と青く現れていた。それが眼に入るか入らぬに屹と頭を・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・男は自分の思惑を憚るかして、妙な顔して、ただもう悄然と震え乍ら立って居る。「何しろ其は御困りでしょう。」と自分は言葉をつづけた。「僕の家では、君、斯ういう規則にして居る。何かしら為て来ない人には、決して物を上げないということにして居る。・・・ 島崎藤村 「朝飯」
・・・ 長いこと二人は言葉を交さないで、悄然と眺め入っていた。 やがて別れる時が来た。暫時二人は門外の石橋のところに佇立みながら、混雑した往来の光景を眺めた。旧い都が倒れかかって、未だそこここに徳川時代からの遺物も散在しているところは――・・・ 島崎藤村 「並木」
出典:青空文庫