・・・――作家は悄然とうなだれて答えた。ええ、わたくしは今まで、ずいぶんたくさんの愚劣な手紙を、ほうぼうへ撒きちらして来ましたから。(深い溜息大作家にはなれますまい。 これは笑い話ではない。私は不思議でならないのだ。日本では偉い作家が死んで、・・・ 太宰治 「もの思う葦」
・・・村の者の目にも悄然たる彼の姿は映った。悪戯好のものは太十の意を迎えるようにして共に悲んだ容子を見てやった。太十は泣き相になる。それでもお石の噂をされることがせめてもの慰藉である。みんなに揶揄われる度に切ない情がこみあげて来てそうして又胸がせ・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・へと参らざるべからざる不運に際会せり、監督兼教師は○○氏なり、悄然たる余を従えて自転車屋へと飛び込みたる彼はまず女乗の手頃なる奴を撰んでこれがよかろうと云う、その理由いかにと尋ぬるに初学入門の捷径はこれに限るよと降参人と見てとっていやに軽蔑・・・ 夏目漱石 「自転車日記」
・・・碌さんは悄然として、首の消えた方角を見つめている。 しばらくすると、まるで見当の違った半丁ほど先に、圭さんの首が忽然と現われた。「帽子はないぞう」「帽子はいらないよう。早く帰ってこうい」 圭さんは坊主頭を振り立てながら、薄の・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・見ると塔門の前に一人の女が黒い喪服を着て悄然として立っている。面影は青白く窶れてはいるが、どことなく品格のよい気高い婦人である。やがて錠のきしる音がしてぎいと扉が開くと内から一人の男が出て来て恭しく婦人の前に礼をする。「逢う事を許されて・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・善吉はしばらく待ッていたが、吉里が急に出て来る様子もないから、われ一人悄然として顔を洗いに行ッた。 そこには客が二人顔を洗ッていた。敵娼はいずれもその傍に附き添い、水を杓んでやる、掛けてやる、善吉の目には羨ましく見受けられた。 客の・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・』 子を抱いた女の彼の可哀相な人が悄然として、お帰りの後から斯う声を掛けて、彼女の方がまた睨んで御居ででした。『あの、貴方。』と、うッて変った優しい御声は、洋服を召した気高い貴婦人が其処に来掛って、あの可哀相な女の人をお呼止めになっ・・・ 広津柳浪 「昇降場」
・・・男も悄然として居る。人知れず力を入れて手を握った。直に艀舟に乗った。女は身動きもせず立って居た。こんな聯想が起ったので、「桟橋に別れを惜む夫婦かな」とやったが、月がなかった。今度は故郷の三津を想像して、波打ち際で、別を惜むことにしようと思う・・・ 正岡子規 「句合の月」
・・・(兵卒悄然(兵卒らこの時漸く饑餓を回復し良心の苛責に勝兵卒三「おれたちは恐ろしいことをしてしまったなあ。」兵卒十「全く夢中でやってしまったなあ。」兵卒一「勲章と胃袋にゴム糸がついていたようだったなあ」兵卒九「・・・ 宮沢賢治 「饑餓陣営」
・・・ 悄然として呟く紺背広の技師の一歩前で、これはまた溌剌とした栖方の坂路を降りていく鰐足が、ゆるんだ小田原提灯の巻ゲートル姿で泛んで来る。それから三笠艦を見物して、横須賀の駅で別れるとき、「では、もう僕はお眼にかかれないと思いますから・・・ 横光利一 「微笑」
出典:青空文庫