・・・「全世界の人悉くこの願を有ていないでも宜しい、僕独りこの願を追います、僕がこの願を追うたが為めにその為めに強盗罪を犯すに至ても僕は悔いない、殺人、放火、何でも関いません、もし鬼ありて僕に保証するに、爾の妻を与えよ我これを姦せん爾の子を与・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・何たる残刻無情の一語ぞ、自分は今もってこの一語を悔いている。しかしその時は自分もかれの変化があまり情けないので知らず知らずこれを卑しむ念が心のいずこかに動いていたに違いない。『あハハハハハハ』かれも笑った。 不平と猜忌と高慢とですご・・・ 国木田独歩 「まぼろし」
・・・私は悔いを感じない。人生に対し、真理に対し、恋愛に対し、私のうけたいのちと、おかれた環境とにおいては、充分に全力をあげて生きた気がする。 二十三歳で一高を退き、病いを養いつつ、海から、山へ、郷里へと転地したり入院したりしつつ、私は殉情と・・・ 倉田百三 「『出家とその弟子』の追憶」
・・・ 二人は、これまで、あまりに真面目で、おとなしかった自分達のことを悔いていた。出たらめに、勝手気まゝに振るまってやらなければ損だ。これからさき、一年間を、自分の好きなようにして暮してやろう。そう考えていた。 ――吉田は、防寒服を着け・・・ 黒島伝治 「雪のシベリア」
・・・ その夜若崎は、「もう失敗しても悔いない。おれは昔の怜悧者ではない。おれは明治の人間だ。明治の天子様は、たとえ若崎が今度失敗しても、畢竟は認めて下さることを疑わない」と、安心立命の一境地に立って心中に叫んだ。 ○・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・そうなってしまうと、今度はハッキリ自家へ真直に帰らなかったことが、たまらなく悔いられた。取り返しのつかないことのように考えられた。龍介は停車場の前まで戻ってきてみた。待合室はガランとしていてストーヴが燃えていた。その前に、印も何も分らない半・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・とは今の誡めわが讐敵にもさせまじきはこのことと俊雄ようやく夢覚めて父へ詫び入り元のわが家へ立ち帰れば喜びこそすれ気振りにもうらまぬ母の慈愛厚く門際に寝ていたまぐれ犬までが尾をふるに俊雄はひたすら疇昔を悔いて出入りに世話をやかせぬ神妙さは遊ば・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・ しかし、私は子供をしかって置いては、いつでもあとで悔いた。自分ながら、自分の声とも思えないような声の出るにあきれた。私はひとりでくちびるをかんで、仕事もろくろく手につかない。片親の悲しさには、私は子供をしかる父であるばかりでなく、そこ・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・ 信じて敗北する事に於いて、悔いは無い。むしろ永遠の勝利だ。それゆえ人に笑われても恥辱とは思わぬ。けれども、ああ、信じて成功したいものだ。この歓喜! だまされる人よりも、だます人のほうが、数十倍くるしいさ。地獄に落ちるのだか・・・ 太宰治 「かすかな声」
・・・私はすでに六本の徳利をからにしたことを、ちくちく悔いはじめたのである。もっともっと酔いたかった。こよいの歓喜をさらにさらに誇張してみたかったのである。あと四本しか呑めぬ。それでは足りない。足りないのだ。盗もう。このウイスキイを盗もう。女給た・・・ 太宰治 「逆行」
出典:青空文庫