・・・ こう思ったが、渠はそれを悔いはしなかった。敵の捨てて遁げた汚い洋館の板敷き、八畳くらいの室に、病兵、負傷兵が十五人、衰頽と不潔と叫喚と重苦しい空気と、それにすさまじい蠅の群集、よく二十日も辛抱していた。麦飯の粥に少しばかりの食塩、よくあれ・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・宗教類似の信仰に夢中になって家族を泣かせるおやじもあれば、あるいは干戈を動かして悔いない王者もあったようである。 芸術でも哲学でも宗教でも、それが人間の人間としての顕在的実践的な活動の原動力としてはたらくときにはじめて現実的の意義があり・・・ 寺田寅彦 「コーヒー哲学序説」
・・・ しかしわたしはこれがために幾多の日子と紙料とを徒費したことを悔いていない。わたしは平生草稿をつくるに必ず石州製の生紙を選んで用いている。西洋紙にあらざるわたしの草稿は、反古となせば家の塵を掃うはたきを作るによろしく、揉み柔げて厠に持ち・・・ 永井荷風 「十日の菊」
・・・聖徒に向って鞭を加えたる非の恐しきは、鞭てるものの身に跳ね返る罰なきに、自らとその非を悔いたればなり。われを疑うアーサーの前に恥ずる心は、疑わぬアーサーの前に、わが罪を心のうちに鳴らすが如く痛からず。ギニヴィアは悚然として骨に徹する寒さを知・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・あの若さで世の偽に欺かれたのを悔いたような処のあるのを面白く感じたと云った。そこで欺して己が手に入れて散々弄んだ揚句に糟を僕に投げてくれた。姿も心も変り果てて、渦巻いていた美しい髪の毛が死んだもののように垂れている化物にして、それを僕に授け・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・ 欲しがって居たのにやらなかった、私のその時の行いをどれほど今となって悔いて居るだろう。 けれ共、甲斐のない事になって仕舞ったのである。 小さい飯事道具を一そろいそれも人形のわきに納められた。娘にならずに逝った幼児は大きく育って・・・ 宮本百合子 「悲しめる心」
・・・教会流にマリアが「悔いあらため」、消極的、否定的に「きよきもの」となっていただけなら、どうして彼女が、第一に、甦ったイエスを見たという愛の幻想にとらわれたろう。彼女は、どういう苦悩を予感して、イエスの埃にまみれて痛い足を、あたためた香油にひ・・・ 宮本百合子 「傷だらけの足」
・・・けれども別に何の悔い心も起らなかった。ただ彼は自分の博愛心を恋人に知らす機会を失つたことを少なからず後悔した後で、それほどまでも秋三に踊らせられた自分の小心が腹立たしくなって来た。が、曽て敵の面前で踊った彼の寛大なあのひと踊りの姿は、一体彼・・・ 横光利一 「南北」
・・・しかし必ずしも悔いはしない。浅薄ではあっても、とにかく予としては必然の道であった。そうしてこの歯の浮くような偶像破壊が、結局、その誤謬をもって予を導いたのであった。――予は病理的に昂進した欲望をもって破壊に従事した。行き過ぎた破壊は予を虚無・・・ 和辻哲郎 「『偶像再興』序言」
・・・自分の醜さに堪えられぬほどの恥ずかしさを感ずることも稀ではない。悔いなきことを誇りとしたのは、もう過ぎ去った事である。やがてまた悔ゆることなき生活に入りたいという要求はあるが、それにはまず我を滅して大いなる愛の力に動く所の自分になっていなく・・・ 和辻哲郎 「自己の肯定と否定と」
出典:青空文庫