・・・ もうもうもう、今度顔を合せたが最後、きっと喉笛に噛みついてやるから。口惜しい。口惜しい。口惜しい。(黄泉 使 まあ、待って下さい。わたしは何も知らなかったのですから、――まあ、この手をゆるめて下さい。 小町 一体あなたが莫迦ではあ・・・ 芥川竜之介 「二人小町」
・・・お母さんがいくら八っちゃんは弟だから可愛がるんだと仰有ったって、八っちゃんが頬ぺたをひっかけば僕だって口惜しいから僕も力まかせに八っちゃんの小っぽけな鼻の所をひっかいてやった。指の先きが眼にさわった時には、ひっかきながらもちょっと心配だった・・・ 有島武郎 「碁石を呑んだ八っちゃん」
・・・然しそれにもかかわらず、私といわず、お前たちも行く行くは母上の死を何物にも代えがたく悲しく口惜しいものに思う時が来るのだ。世の中の人が無頓着だといってそれを恥じてはならない。それは恥ずべきことじゃない。私たちはそのありがちの事柄の中からも人・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・げて目に見えて手足が細くなった、それさえ我儘をさしちゃあおきませなんだ、貴女は御全盛のお庇に、と小刀針で自分が使う新造にまでかかることを言われながら、これにはまた立替えさしたのが、控帳についてるので、悔しい口も返されない。 という中にも・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・ 十三「口惜しい!」 紫玉は舷に縋って身を震わす。――真夜中の月の大池に、影の沈める樹の中に、しぼめる睡蓮のごとく漾いつつ。「口惜しいねえ。」 車馬の通行を留めた場所とて、人目の恥に歩行みもならず、―・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・私が云うと、月給が取れなくなったのを気にするようで口惜しいから、何にも口へは出さなかったけれど、貴方、この間から鬱いでいるのはその事でしょう。可いじゃありませんか。蹈んだり蹴たりされるのを見ちゃ、掏賊だって助けまいものでもない、そこが男よ。・・・ 泉鏡花 「湯島の境内」
・・・行っちゃ帰り、行っちゃ帰り、ちょうど二十日の間、三七二十一日目の朝、念が届いてお宮の鰐口に縋りさえすれば、命の綱は繋げるんだけれども、婆に邪魔をされてこの坂が登れないでは、所詮こりゃ扶からない、ええ悔しいな、たとえ中途で取殺されるまでも、お・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・その女だって、その臭い口で声を張って唱ったんだと思うと、聞いていて、口惜しい、睨んでやりたいようですわ。――でも自害をなさいました、後一年ばかり、一時はこの土地で湯屋でも道端でも唄って、お気の弱いのをたっとむまでも、初路さんの刺繍を恥かしい・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・もう嬉しがってと云われるのが口惜しいのである。母は起きてきて、「政夫も支度しろ。民やもさっさと支度して早く行け。二人でゆけば一日には楽な仕事だけれど、道が遠いのだから、早く行かないと帰りが夜になる。なるたけ日の暮れない内に帰ってくる様に・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・ 予は洋燈を相手に、八畳の座敷に一人つくねんとしてまとまった考えがあるでもなく、淋しいような、気苦しいような、又口惜しいような心持に気が沈む。馬鹿々々しく頭が腐抜けになったように、吾れ知らず「こんな所へくることよせばよかったなア」と又独・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
出典:青空文庫