・・・本郷なる何某と云うレストランに、久米とマンハッタン・カクテルに酔いて、その生活の放漫なるを非難したる事ありしが、何時か久米の倨然たる一家の風格を感じたのを見ては、鶏は陸に米を啄み家鴨は水に泥鰌を追うを悟り、寝静まりたる家家の向う「低き夢夢の・・・ 芥川竜之介 「久米正雄」
・・・しかし姉と話しているうちにだんだん彼も僕のように地獄に堕ちていたことを悟り出した。彼は現に寝台車の中に幽霊を見たとか云うことだった。が、僕は巻煙草に火をつけ、努めて金のことばかり話しつづけた。「何しろこう云う際だしするから、何もかも売っ・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・わたしは夫の眼の中に、何とも云いようのない輝きが、宿っているのを覚りました。何とも云いようのない、――わたしはあの眼を思い出すと、今でも身震いが出ずにはいられません。口さえ一言も利けない夫は、その刹那の眼の中に、一切の心を伝えたのです。しか・・・ 芥川竜之介 「藪の中」
・・・三の烏 あれほどのものを、持運びから、始末まで、俺たちが、この黒い翼で人間の目から蔽うて手伝うとは悟り得ず、薄の中に隠したつもりの、彼奴等の甘さが堪らん。が、俺たちの為す処は、退いて見ると、如法これ下女下男の所為だ。天が下に何と烏ともあ・・・ 泉鏡花 「紅玉」
・・・だがな、またこの和尚が世棄人過ぎた、あんまり悟りすぎた。参詣の女衆が、忘れたればとって、預けたればとって、あんだ、あれは。」 と、せきこんで、「……外廻りをするにして、要心に事を欠いた。木魚を圧に置くとは何たるこんだ。」 と、や・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・ お雪の病気を復すにも怪しいものを退治るにも、耆婆扁鵲に及ばず、宮本武蔵、岩見重太郎にも及ばず、ただ篠田の心一つであると悟りましたので、まだ、二日三日も居て介抱もしてやりたかったのではありますけれども、小宮山は自分の力では及ばない事を知・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・ ついに、この種の薬は、他の虫にはきいても、ありだけには、絶対的の信用が置けぬことを悟りました。それは、ありが薬に抵抗力の強いばかりでなく、全く、薬を使用しきれぬ程の多数群であるのと、人間でも及ばぬ、堅ろうな組織を有するからでした。・・・ 小川未明 「近頃感じたこと」
・・・そして、ほんとうにまどわない悟りがついたら、そのとき、あの世へやってやる。」と、仏さまは女に申されました。 また、仏さまは、三人の男に向かって、「女がほんとうに悟りがついて、永久に変わらない自分の夫を見分けがつくまで、ここに待ってい・・・ 小川未明 「ちょうと三つの石」
・・・いま盛なる人と雖も、やがては後から来るであろうという一種の悟りに似たような冷淡を覚えるのであります。曾ては金持や、資本家というものを仮借なく敵視した時代もあったが、これ等の欲深者も死ぬ時には枕許に山程の財宝を積みながら、身には僅かに一枚の経・・・ 小川未明 「春風遍し」
・・・然し、まだ悟りと言うものが残っている。若し幸にして悟れたら其の苦痛は無くなるだろう」と言いますと、病人は「フーン」と言って暫し瞑目していましたが、やがて「解りました。悟りました。私も男です。死ぬなら立派に死にます」と仰臥した胸の上で合掌しま・・・ 梶井久 「臨終まで」
出典:青空文庫