・・・御糺明の喇叭さえ響き渡れば、「おん主、大いなる御威光、大いなる御威勢を以て天下り給い、土埃になりたる人々の色身を、もとの霊魂に併せてよみ返し給い、善人は天上の快楽を受け、また悪人は天狗と共に、地獄に堕ち」る事を信じている。殊に「御言葉の御聖・・・ 芥川竜之介 「おぎん」
・・・それから男女の兄弟はたとい悪人に生まれるにもしろ、莫迦には決して生まれない結果、少しも迷惑をかけ合わないのである。それから女は妻となるや否や、家畜の魂を宿す為に従順そのものに変るのである。それから子供は男女を問わず、両親の意志や感情通りに、・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・平家は高平太以下皆悪人、こちらは大納言以下皆善人、――康頼はこう思うている。そのうぬ惚れがためにならぬ。またさっきも云うた通り、我々凡夫は誰も彼も、皆高平太と同様なのじゃ。が、康頼の腹を立てるのが好いか、少将のため息をするのが好いか、どちら・・・ 芥川竜之介 「俊寛」
・・・「善人かと思えば、悪人でもあるしさ」「いや、善悪と云うよりも何かもっと反対なものが、……」「じゃ大人の中に子供もあるのだろう」「そうでもない。僕にははっきりと言えないけれど、……電気の両極に似ているのかな。何しろ反対なものを・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・とささやいたので思いがけない悪心が起ったので山刀をさし枕槍をひっさげてその坊さんの跡をおっかけて行く、まだ九つ許りの娘の分際でこんな事を親に進めたのは大悪人である。殊更、熊野の奥の山家に住んで居るんだから、干鯛が木になるものだか、からかさは・・・ 著:井原西鶴 訳:宮本百合子 「元禄時代小説第一巻「本朝二十不孝」ぬきほ(言文一致訳)」
・・・ 正直と善良とがあれば、物静かな村の生活でも、虚偽と浮薄が風をなす、物質的文明で飾られた大都会の生活よりは、遙に貴いと確信される如く、悪人がいかに外面に美しく飾っても、畢竟、善い人間とはならないようなものであります。 地上に生れて来・・・ 小川未明 「草木の暗示から」
・・・ 然し自分は到底悪人ではない、又度胸のある男でもない。さればこそ母からも附込まれ、遂に母を盗賊にして了い、遂に自分までが賊になってしまったのである。であるから賊になった上で又もや悶き初めるのは当然である。総て自分のような男は皆な同じ行き・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・まさかに馬琴の書きましたほどの悪人が、その当時に存して居ったとは思えませぬが、さればとてそれは全く馬琴の空想ばかりで捏造したものではありません。ここに至りますと、半分は実社会の人物を種として、半分はそれに馬琴の該博な智識――おもに歴史から得・・・ 幸田露伴 「馬琴の小説とその当時の実社会」
・・・そして、はなはだ尊敬すべき善人ではなくとも、またはなはだ嫌悪すべき悪人でもない多くの小人・凡夫が、あやまって時の法律にふれたために――単に一羽の鶴をころし、一頭の犬をころしたということのためにすら――死刑に処せられたのも、また事実である。要・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・き極悪・重罪の人が死刑に処せられたのは事実である、左れど此れと同時に多くの尊むべく敬すべく愛すべき善良・賢明の人が死刑に処せられたのも事実である、而して甚だ尊敬すべき善人ならざるも、亦た甚だ嫌悪すべき悪人にもあらざる多くの小人・凡夫が、誤っ・・・ 幸徳秋水 「死生」
出典:青空文庫