・・・最初に登場する寺子屋の寺子らははなはだ無邪気でグロテスクなお化けたちであるが、この悲劇への序曲として後にきたるべきもののコントラストとしての存在である以上は、こうした粗末な下手な子供人形のほうが、あるいはかえって生きたよだれくりどもよりよい・・・ 寺田寅彦 「生ける人形」
・・・舗道をあるくルンペンの靴音によって深更のパリの裏町のさびしさが描かれたり、林間の沼のみぎわに鳴く蛙や虫の声が悲劇のあとのしじまを記載するような例がそれである。 このような音のモンタージュは俳諧には普通である。有名な「古池やかわず飛び込む・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
・・・オセロは四大悲劇の一である。しかし読んでけっして好い感じの起るものではない。不愉快である。もし感じ一方をもってあの作に対すれば全然愚作である。幸にしてオセロは事件の綜合と人格の発展が非常にうまく配合されて自然と悲劇に運び去る手際がある。読者・・・ 夏目漱石 「作物の批評」
・・・現代の世に荘厳の感を起す悲劇は一つも出ないのでも分ります。現代文芸の理想が美にもあらず、善にもあらずまた荘厳にもあらざる以上は、その理想は真の一字にあるに相違ない。例を引けば長くなる、証を挙げれば大変である。仕方がないから、ただ真の一字が現・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・でなくて「悲劇」である。 とにかく僕は、最近漸くにして自己の孤独癖を治療し得た。そして心理的にも生理的にも、次第に常識人の健康を恢復して来た。ミネルバの梟は、もはや暗い洞窟から出て、白昼を飛ぶことが出来るだろう。僕はその希望を夢に見て楽・・・ 萩原朔太郎 「僕の孤独癖について」
・・・ 悲劇の主人公は、私の予想を裏切った。 私はたとえば、彼女が三人のごろつきの手から遁げられるように、であるとか、又はすぐ警察へ、とでも云うだろうと期待していた。そしてそれが彼女の望み少い生命にとっての最後の試みであるだろうと思ってい・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・ 愛という言葉をもったとき、人間の悲劇ははじまりました。人類愛という声がやかましく叫ばれるときほど、飢えや寒さや人情の刻薄がひどく、階級の対立は鋭く、非条理は横行します。 わたしは、愛を愛します。ですから、このドロドロのなかに溺れて・・・ 宮本百合子 「愛」
・・・それはわたくし悲劇が嫌だからでございますの。ちょうどいい時節が来たので、手紙を落します。するとあなたが段々わたくしに構わないようにおなりなさる。そこで平和の中にお別れが出来ると云うものじゃございませんか。 男。しかしなぜわたくしの恋をさ・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「最終の午後」
・・・この間、栖方の家庭上にはこの若者を悩ましている一つの悲劇があった。それは、母の実家が代代の勤皇家であるところへ、父が左翼で獄に入ったため、籍もろとも実家の方が栖方母子二人を奪い返してしまったことである。父母の別れていることは絶ちがたい栖方の・・・ 横光利一 「微笑」
・・・偉大な人々の悲劇的生活は私たちの慰藉でありまた鞭であります。彼らが小さい一冊の本を書くためにも、その心血を絞り永年の刻苦と奮闘とを通り抜けなければならなかった事を思えば、私たちが生ぬるい心で少しも早く何事かを仕上げようなどと考えるのは、あま・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
出典:青空文庫