・・・僕はなんという幻滅の悲哀を味わわねばならないんだ。このチョコレットの代わりにガランスが出てきてみろ、君たちはこれほど眼の色を変えて熱狂しはしなかろう。ミューズの女神も一片のチョコレットの前には、醜い老いぼれ婆にすぎないんだ。ミューズを老いぼ・・・ 有島武郎 「ドモ又の死」
・・・生命を極端に重んずるから、死の悲哀が極度に己れを苦しめる。だから向上心の弱い人には幸福はないということになる。宗教の問題も解決はそこに帰するのであろう、朝に道を聞いて夕べに死すとも可なりとは、よく其精神を説明して居るではないか。 岡村は・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・ 何といっても、私が最も、年齢について、悲哀を感じたのは、その三十の年を過ぐる時でありました。「あゝ、もう青春も去ってしまったのか?」 四季について言えば、三十までは、春の日の光りの裡にまどろむ自然の如くでありました。柔らかな、・・・ 小川未明 「机前に空しく過ぐ」
・・・此の如きは実に人間として感覚の悲哀を感ずべき事ではあるまいか。 又一方より云えば、吾人の感覚に、何程多くの経験を意識する事が出来るか、殆んど数うべからざる程の多くの外界的刺戟に対して感ずる感覚は、極めて単調であるとしか見られない。要する・・・ 小川未明 「絶望より生ずる文芸」
・・・ 幻滅の悲哀は、人間生活の何の部面にも見出された事実ではあったが、殊に、各自の家庭に、最も、そのことを見出した。恋愛至上主義によって、結婚した男女は、いまや、幻滅の悲哀を感じて、いまゝで美しかったもの愛したものに、限りない憎悪と醜悪とを・・・ 小川未明 「婦人の過去と将来の予期」
・・・人間にかぶせていた偽善のヴェールをひきさく反抗のメスの文学であろうか、それとも、与謝野晶子、斎藤茂吉の初期の短歌の如く新感覚派にも似た新しい官能の文学であろうか、あるいは頽廃派の自虐と自嘲を含んだ肉体悲哀の文学であろうか、肉体のデカダンスの・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・私は藤沢さんを訪ねるとか、手紙を出すかして、共に悲哀を分とうと思ったが、仕事にさまたげられたのと、極度の疲労状態のため、果せなかった。莫迦みたいに一人蒲団にもぐり込んで、ぼんやり武田さんのことを考えていた。特徴のある武田さんの笑い声を耳の奥・・・ 織田作之助 「武田麟太郎追悼」
・・・どんな悲哀も倦怠も私から煙草を奪い上げることは出来なかったのだ。いや、どんなに救われない状態でも、煙草だけが私を慰めたのだ。 一日四十本以上吸うのは、絶対のニコチン中毒だということだが、私の喫煙量は高等学校時代に、既にその限界を超え・・・ 織田作之助 「中毒」
・・・そしてその尨大な容積やその藤紫色をした陰翳はなにかしら茫漠とした悲哀をその雲に感じさせた。 私の坐っているところはこの村でも一番広いとされている平地の縁に当っていた。山と溪とがその大方の眺めであるこの村では、どこを眺めるにも勾配のついた・・・ 梶井基次郎 「蒼穹」
・・・鋭い悲哀を和らげ、ほかほかと心を怡します快感は、同時に重っ苦しい不快感である。この不快感は日光浴の済んだあとなんとも言えない虚無的な疲れで病人を打ち敗かしてしまう。おそらくそれへの嫌悪から私のそうした憎悪も胚胎したのかもしれないのである。・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
出典:青空文庫