・・・海上の甲板で、軍歌を歌った時には悲壮の念が全身に充ち渡った。敵の軍艦が突然出てきて、一砲弾のために沈められて、海底の藻屑となっても遺憾がないと思った。金州の戦場では、機関銃の死の叫びのただ中を地に伏しつつ、勇ましく進んだ。戦友の血に塗れた姿・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・トナカイが死地に陥って敢然たる攻勢を取り近寄る犬どもを踏みつぶそうとする光景は獣類とはいえ悲壮である。いかなる名優の活劇でも、これに比べてはおそらく茶番のようなものである。それからの後の場面で荒涼たる大雪原を渡ってくるトナカイの大群の実写は・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・県出身の若き将校らの悲壮な戦死を描いた平凡な石版画の写真でも中学生のわれわれの柔らかい頭を刺激し興奮させるには充分であった。そしてそれらの勇士を弔う唱歌の女学校生徒の合唱などがいっそう若い頭を感傷的にしたものである。一つは観客席が暗がりであ・・・ 寺田寅彦 「映画時代」
・・・ば無理もない次第である――議論が思わず岐路へそれた――妾宅の主人たる珍々先生はかくの如くに社会の輿論の極端にも厳格枯淡偏狭単一なるに反して、これはまた極端に、凡そ売色という一切の行動には何ともいえない悲壮の神秘が潜んでいると断言しているので・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・自分は突然一種悲壮な感に打たれた。あの夕日の沈むところは早稲田の森であろうか。本郷の岡であろうか。自分の身は今如何に遠く、東洋のカルチェエ・ラタンから離れているであろう。盲人は一曲終ってすぐさま、「更けて逢ふ夜の気苦労は――」と歌いつづ・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・しかし読んでしまっていかにも感じがわるい。悲壮だの芳烈だのと云う考えは出て来ない、ただ妙な圧迫を受ける。ひまがあったら、この感じを明暸に解剖して御目にかけたいと思うが今では、そこまでに頭が整うておりませんから一言にして不愉快な作だと申します・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・それ故にこそ、彼の最後の書物に標題して、自ら悲壮にも Ecce homoと書いた。Ecce homo とは、十字架に書きつけられた受難者キリストの標語であつた。ニイチェの意味に於ては、それがキリストに叛逆する標語であつた。あの中世紀の魔教サ・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
・・・と云う言葉は何と悲壮な、心持を充分表した言葉でしょう』と云う文句があった。彼には、堪える丈堪えたのだと云う自己に対する承認とともに万事を放擲した心境が、一種の感傷癖でなつかしく思われたのだろう。 又、彼のすばしこさで、この事件に対する世・・・ 宮本百合子 「有島武郎の死によせて」
・・・それにもかかわらず、作者は「彼はちょっと悲壮な気持で第一声をはなった。『では質問に入りますから、判らぬところがあったら……』」云々といってすぎている。この一句で真摯なるべき現実が不快にくずされている。悲壮という複雑な人間的感情の集約的表現は・・・ 宮本百合子 「一連の非プロレタリア的作品」
・・・それから中一年置いて、家康が多年目の上の瘤のように思った小山の城が落ちたが、それはもう勝頼の滅びる悲壮劇の序幕であった。 武田の滅びた天正十年ほど、徳川家の運命の秤が乱高下した年はあるまい。明智光秀が不意に起って信長を討ち取る。羽柴秀吉・・・ 森鴎外 「佐橋甚五郎」
出典:青空文庫