・・・馬は、――畜生になった父母は、苦しそうに身を悶えて、眼には血の涙を浮べたまま、見てもいられない程嘶き立てました。「どうだ。まだその方は白状しないか」 閻魔大王は鬼どもに、暫く鞭の手をやめさせて、もう一度杜子春の答を促しました。もうそ・・・ 芥川竜之介 「杜子春」
・・・そう思って彼女は何とかせねばならぬと悶えながらも何んにもしないでいた。慌て戦く心は潮のように荒れ狂いながら青年の方に押寄せた。クララはやがてかのしなやかなパオロの手を自分の首に感じた。熱い指先と冷たい金属とが同時に皮膚に触れると、自制は全く・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・一つの道を踏みかけては他の道に立ち帰り、他の道に足を踏み入れてなお初めの道を顧み、心の中に悶え苦しむ人はもとよりのこと、一つの道をのみ追うて走る人でも、思い設けざるこの時かの時、眉目の涼しい、額の青白い、夜のごとき喪服を着たデンマークの公子・・・ 有島武郎 「二つの道」
・・・ その時、もう、これをして、瞬間の以前、立花が徒に、黒白も分かず焦り悶えた時にあらしめば、たちまち驚いて倒れたであろう、一間ばかり前途の路に、袂を曳いて、厚いふきを踵にかさねた、二人、同一扮装の女の童。 竪矢の字の帯の色の、沈んで紅・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・と抱いたまま、はッはッいうと、絶ゆげな呼吸づかい、疲果てた身を悶えて、「厭よう、つかまえられるよう。」「誰に、誰につかまえられるんだよ。」「厭ですよ、あれ、巡査さん。」「何、巡査さんが、」と驚いたが、抱く手の濡れるほど哀れ冷・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・ モウパッサンが普仏戦争を題材にした一篇の読みだしは、「巴里は包囲されて飢えつつ悶えている。屋根の上に雀も少くなり、下水の埃も少くなった。」と言うのではなかったか。 雪の時は――見馴れぬ花の、それとは違って、天地を包む雪であるから、・・・ 泉鏡花 「二、三羽――十二、三羽」
・・・なおかくの通りの旱魃、市内はもとより近郷隣国、ただ炎の中に悶えまする時、希有の大魚の躍りましたは、甘露、法雨やがて、禽獣草木に到るまでも、雨に蘇生りまする前表かとも存じまする。三宝の利益、四方の大慶。太夫様にお祝儀を申上げ、われらとても心祝・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・だが、江戸の作者の伝統を引いた最後の一人たる緑雨の作は過渡期の驕児の不遇の悶えとして存在の理由がある。緑雨の作の価値を秤量するにニーチェやトルストイを持出すは牛肉の香味を以て酢の物を論ずるようなものである。緑雨の通人的観察もまたしばしば人生・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・言換えると二葉亭は周囲のもの一切が不満であるよりはこの不満をドウスル事も出来ないのが毎日の堪えざる苦痛であって、この苦痛を紛らすための方法を求めるに常に焦って悶えていた。文学もかつてその排悶手段の一つであったが、文学では終に紛らし切れなくな・・・ 内田魯庵 「二葉亭四迷」
・・・二葉亭がかつて疑いがあるから哲学で、疑いがなくなったら哲学でなくなるといった通りに、悶えるのが二葉亭の存在であって、悶えがなくなったら二葉亭でなくなる。命のあらん限り悶えから悶えへと一生悶えを追って悶え抜くのが二葉亭である。『浮雲』の文三が・・・ 内田魯庵 「二葉亭追録」
出典:青空文庫