・・・私は、わざと寝呆けたような声で尋ねた。ボオイは、ちらりと腕時計を見て、「もう、十分でございます。」と答えた。 私は、あわてた。何が何やら、わからなかった。鞄から毛糸の頸巻を取り出し、それを頸にぐるぐる巻いて甲板に出て見た。もう船は、・・・ 太宰治 「佐渡」
・・・私は、少し寝呆けていた。「いいえ、」女中も笑っていた。「ちょっと、お目にかかりたいんですって。」 やっと思い出した。きのう一日のことが、つぎつぎに思い出されて、それでも、なんだか、はじめから終りまで全部、夢のようで、どうしても、事実・・・ 太宰治 「新樹の言葉」
・・・いまは、何やら苦しみに呆け、めっきり弱くなっているので、「黄金の波、苹果の頬。」という甘い言葉に乗せられ、故郷へのむかしの憎悪も、まるで忘れて、つい、うかうか、出席、と書いてしまった。それが、理由の三つ。 出席、と返事してしまってから、・・・ 太宰治 「善蔵を思う」
・・・に連れられ御所へあがって将軍家のお傍の御用を勤めるようになったのですが、あの時の火事で入道さまが将軍家よりおあずかりの貴い御文籍も何もかもすっかり灰にしてしまったとかで、御所へ参りましても、まるでもう呆けたようになって、ただ、だらだらと涙を・・・ 太宰治 「鉄面皮」
・・・もがきあがいて、そのうちに、呆けてしまった。いまは、何も、わからない。いや、笠井さんの場合、何もわからないと、そう言ってしまっても、ウソなのである。ひとつ、わかっている。一寸さきは闇だということだけが、わかっている。あとは、もう、何もわから・・・ 太宰治 「八十八夜」
・・・そして、誰かがそれをとろうとすると、半寝呆けながら「いや、お父様んだから百合ちゃんがもっていく」と拒みながら。 書簡註。軽い夕飯を食っているのはグリーン色の縞のスカートに膝出したハイランダアである。炉辺にかけて、右手で・・・ 宮本百合子 「中條精一郎の「家信抄」まえがきおよび註」
・・・ 他人の云うことも聞えないことの方が多かったりして、彼は我ながら、はあ呆けて来たわえと思うことなどもあった。 苦しい生活に疲れた彼の心は、ひたすら安静を望んでいるのである。もう激しい世の中から隠遁してしまいたくなっているのである。・・・ 宮本百合子 「禰宜様宮田」
・・・汽車に揺られて、節々が痛む上に、半分寐惚けて、停車場に降りた。ここで降りたのは自分一人である。口不精な役人が二等の待合室に連れて行ってくれた。高い硝子戸の前まで連れて来て置いて役人は行ってしまった。フィンクは肘で扉を押し開けて閾の上に立って・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
出典:青空文庫