・・・いゝ豚がよその悪い種と換るのも惜しい。それに彼は、いくらか小金を溜めて、一割五分の利子で村の誰れ彼れに貸付けたりしていた。ついすると、小作料を差押えるにもそれが無いかも知れない小作人とは、彼は類を異にしていた。けれども、一家が揃って慾ばりで・・・ 黒島伝治 「豚群」
・・・ 元来正賓は近年逆境におり、かつまた不如意で、惜しい雲林さえ放そうとしていた位のところへ、廷珸の侮りに遭い、物は取上げられ、肋は傷けられたので、鬱悶苦痛一時に逼り、越夕して終に死んでしまった。廷珸も人命沙汰になったので土地にはいられない・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・離れて行こうとするに惜しいほどの周囲でもなかった。 実に些細なことから、私は今の家を住み憂く思うようになったのであるが、その底には、何かしら自分でも動かずにいられない心の要求に迫られていた。七年住んでみればたくさんだ。そんな気持ちから、・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・自分は何とはなしに寝入ってしまうのが惜しい。「ね、小母さん」とふたたび話しかける。「え?」と、小母さんは閉じていた目を開ける。「あの、いったい藤さんはどうした人なんです?」と聞くと、「なぜ?」と言う。 聞いてみると、この・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・読者には、あまり面白くなかったかも知れませんが、私としては、少し新しい試みをしてみたような気もしているので、もう、この回、一回で読者とおわかれするのは、お名残り惜しい思いであります。所詮、作者の、愚かな感傷ではありますが、殺された女学生の亡・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・殊に書物をも少しは読む尼君達さえ、立派だと云って褒めて、学問をしなかったのが惜しいと思っている。伯爵夫人になりたがっている令嬢にも、報告が気に入っている。 * * * この間ポルジイと・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・ 刀根の下流の描写は、――大越から中田までの間の描写は想像でやったので、後に行ってみて、ひどく違っているのを発見して、惜しいことをしたと思った。やはり、写生でなければだめだと思った。これに引きかえて、発戸河岸の松原あたりは、実際行ってみ・・・ 田山花袋 「『田舎教師』について」
・・・それはかまわないつもりでいてもそこを見て後に、同行者の間でちょうど自分の見落としたいいものについての話題が持ち上がった時に、なんだか少し惜しい事をしたという気の起こるのは免れ難かった。 学校教育やいわゆる参考書によって授けられる知識は、・・・ 寺田寅彦 「案内者」
・・・「私も花をあんなものにくれておくのは惜しいでやすよ。多度でもないけれど、商売の資本まで卸してやったからね」と爺さんは時々その娘のことでこぼしていた。「お爺さんなんざ、もう楽をしても好いんですがね。」 上さんはお茶を汲んで出しなが・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・恐怖心が湧起した時には彼には惜しい何物もなかった。それで居て彼は蚊帳の釣手を切って愚弄されたことや何ということはなしに只心外で堪らなくなる。商人は太十に勧めた。太十はそれが余りに廉いと思うとぐっと胸がこみあげて「構わねえ、おら伐らねえ」・・・ 長塚節 「太十と其犬」
出典:青空文庫