・・・その後は署長と巡査との、旧劇めいた愁歎場になった。署長は昔の名奉行のように、何か云い遺す事はないかと云う。巡査は故郷に母がある、と云う。署長はまた母の事は心配するな。何かそのほかにも末期の際に、心遺りはないかと云う。巡査は何も云う事はない、・・・ 芥川竜之介 「将軍」
・・・花田の弟になり切った俺がおまえといっしょにここにいて愁歎場を見せるという仕組みなんだ。どうだ仙人どももわかったか。花田の弟になる俺は生きて行くが、花田の兄貴なるほんとうの花田は死んだことにするんだ。じゃない死ぬことになるんだ。現在死なねばな・・・ 有島武郎 「ドモ又の死」
・・・たいせつの御文籍をたくさん焼かれても、なんのくったくも無げに、私と一緒に入道さまの御愁歎をむしろ興がっておいでのその御様子が、私には神さまみたいに尊く有難く、ああもうこのお方のお傍から死んでも離れまいと思いました。どうしたって私たちとは天地・・・ 太宰治 「鉄面皮」
・・・実際子供やヒステリックな婦人などの場合では、泣いているかと思うと笑っていて、どちらだかわからない場合が多いし、また正常なおとなでも歓楽きわまって哀情を生じたり、愁嘆の場合に存外つまらぬ事で笑いだすような一見不思議な現象がしばしば見らるるので・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・回想は歓喜と愁歎との両面を持っている謎の女神であろう。 ○ 七十になる日もだんだん近くなって来た。七十という醜い老人になるまで、わたくしは生きていなければならないのか知ら。そんな年まで生きていたくない。といって・・・ 永井荷風 「雪の日」
・・・が私たちに与える教訓は決して感傷的な系図しらべにもないし、所謂浮世の転変への愁嘆にもない。妻としての良人への愛情。母としての愛情。又は所謂家庭を守る、ということの真の意義、真に聰明な洞察は果してどういうところにあるのであろうかということにつ・・・ 宮本百合子 「ジャンの物語」
・・・ 世にいじらしい物はいくらもあるが、愁歎の玉子ほどいじらしい物はない。すでに愁歎と事がきまればいくらか愁歎に区域が出来るが、まだ正真の愁歎が立ち起らぬその前に、今にそれが起るだろうと想像するほどいやに胸ぐるしいものはない。このような時に・・・ 山田美妙 「武蔵野」
出典:青空文庫