・・・日頃から物に騒がない本間さんが、流石に愕然としたのはこの時である。が、理性は一度脅されても、このくらいな事でその権威を失墜しはしない。思わず、M・C・Cの手を口からはなした本間さんは、またその煙をゆっくり吸いかえしながら、怪しいと云う眼つき・・・ 芥川竜之介 「西郷隆盛」
・・・一同斉しく愕然として、医学士の面を瞻るとき、他の一人の看護婦は少しく震えながら、消毒したるメスを取りてこれを高峰に渡したり。 医学士は取るとそのまま、靴音軽く歩を移してつと手術台に近接せり。 看護婦はおどおどしながら、「先生、こ・・・ 泉鏡花 「外科室」
・・・ 宗吉は、愕然とするまで、再び、似た人の面影をその女に発見したのである。 緋縮緬の女は、櫛巻に結って、黒縮緬の紋着の羽織を撫肩にぞろりと着て、痩せた片手を、力のない襟に挿して、そうやって、引上げた褄を圧えるように、膝に置いた手に萌黄・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・ 私は愕然として火を思った。 何処ともなしに、キリリキリリと、軋る轅の車の響。 鞠子は霞む長橋の阿部川の橋の板を、あっちこっち、ちらちらと陽炎が遊んでいる。 時に蒼空に富士を見た。 若き娘に幸あれと、餅屋の前を通過ぎつつ・・・ 泉鏡花 「雛がたり」
・・・と一言われ知らず、口よりもれて愕然たり。 八田巡査は一注の電気に感ぜしごとくなりき。 四 老人はとっさの間に演ぜられたる、このキッカケにも心着かでや、さらに気に懸くる様子もなく、「なあ、お香、さぞおれがこ・・・ 泉鏡花 「夜行巡査」
・・・ふとその完全な窒息に眼覚めたとき、愕然と私はしたのだ。「なんという不思議だろうこの石化は? 今なら、あの白い手がたとえあの上で殺人を演じても、誰一人叫び出そうとはしないだろう」 私は寸時まえの拍手とざわめきとをあたかも夢のように思い・・・ 梶井基次郎 「器楽的幻覚」
・・・ 大衆は愕然とした。師僧も父母も色を失うた。諸宗の信徒たちは憤慨した。中にも念仏信者の地頭東条景信は瞋恚肝に入り、終生とけない怨恨を結んだ。彼は師僧道善房にせまって、日蓮を清澄山から追放せしめた。 このときの消息はウォルムスにおける・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・すると源三はこれを聞いて愕然として、秘せぬ不安の色をおのずから見せた。というものは、お浪が云った語は偶然であったのだが、源三は甲府へ逃げ出そうとして意を遂げなかった後、恐ろしい雁坂を越えて東京の方へ出ようと試みたことが、既に一度で無く二度ま・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・然し二人は圧倒されて愕然とした、中辺の高さでは有るが澄んで良い声であった。「揃いも揃って、感心しどころのある奴の。」 罵らるべくもあるところを却って褒められて、二人は裸身の背中を生蛤で撫でられたでもあるような変な心持がしたろう。・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・それだのに、ナーニ、俺が馬鹿なんだ、というこの一語でもって自分の問に答えたこの児の気の動き方というものは、何という美しさであろう、我恥かしい事だと、愕然として自分は大に驚いて、大鉄鎚で打たれたような気がした。釣の座を譲れといって、自分がその・・・ 幸田露伴 「蘆声」
出典:青空文庫