・・・家人の実感に聞けば、二十年くらいまえに愛撫されたことございます、と疑わず断定できるほどのものであった。とき折その可能を、ふと眼前に、千里韋駄天、万里の飛翔、一瞬、あまりにもわが身にちかく、ひたと寄りそわれて仰天、不吉な程に大きな黒アゲハ、も・・・ 太宰治 「創生記」
・・・おまえたちは、愛撫するかも知れぬが、愛さない。 おまえたちの持っている道徳は、すべておまえたち自身の、或いはおまえたちの家族の保全、以外に一歩も出ない。 重ねて問う。世の中から、追い出されてもよし、いのちがけで事を行うは罪なりや。・・・ 太宰治 「如是我聞」
・・・よろこびも、信仰も、感謝も、苦悩も、狂乱も、憎悪も、愛撫も、みんな刹那だ。その場限りだ。一時期すぎると、けろりとしている。恥じるがいい。それが純粋な人間性だ、と僕も、かつては思っていた。僕は科学者だ。人間の官能を悉知している。けれども僕は、・・・ 太宰治 「火の鳥」
・・・ラプンツェルの顔や姿の美しさ、または、ちがう環境に育った花の、もの珍らしさ、或いは、どこやら憐憫を誘うような、あわれな盲目の無智、それらの事がらにのみ魅かれて王子が夢中で愛撫しているだけの話で、精神的な高い共鳴と信頼から生れた愛情でもなし、・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
・・・それは単に小さな子供らの愛撫もしくは玩弄の目的物ができたというばかりでなく、私自身の内部生活にもなんらかのかすかな光のようなものを投げ込んだように思われた。 このような小動物の性情にすでに現われている個性の分化がまず私を驚かせた。物を言・・・ 寺田寅彦 「子猫」
・・・子供のないさびしい人や自分の思うままになる愛撫の対象を人間界に見失った老人などがひたすらに猫をかわいがり、いわゆる猫かわいがりにかわいがる心持ちがだんだんにわかって来るような気がした。ある西洋人がからすを飼って耕作の伴侶にしていた気持ちも少・・・ 寺田寅彦 「ねずみと猫」
・・・三十年以前に死んだ父の末子であった私は、大阪にいる長兄の愛撫で人となったようなものであった。もちろん年齢にも相当の距離があったとおりに、感情も兄というよりか父といった方が適切なほど、私はこの兄にとって我儘な一箇の驕慢児であることを許されてい・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・静かな月光が地に揺れ、優しい魂が心を誘い 愛撫する時愛やよろこびが、手足を動かさずには置かないだろう、あこがれを追う手、過ぎて行く影を追う足。バクストは、それに、衣裳をかくのだ。 *今日は 何・・・ 宮本百合子 「五月の空」
・・・婦人は、平静に母親らしい落付きを保とうと努めながら、愛撫や囁きやアルコオルのため兎角ぐらつきそうになる。映画では大抵若い役者の役割であるラブ・シーンが、このように禿げた男、このように皮膚が赧らみ強ばった女によって現実になされるのを目撃するの・・・ 宮本百合子 「三鞭酒」
・・・ そして、これは、お前達を不仕合わせな目に合わせないため、よく育ててやりたいために親切に作られたものであるという説明を、或るときは優しい愛撫とともに、或るときは激しい威嚇を伴って繰返し繰返しとかれたにも拘らず、彼女はその言葉、その態度、・・・ 宮本百合子 「地は饒なり」
出典:青空文庫