・・・しかも、金無垢の煙管にさえ、愛着のなかった斉広が、銀の煙管をくれてやるのに、未練のあるべき筈はない。彼は、請われるままに、惜し気もなく煙管を投げてやった。しまいには、登城した時に、煙管をやるのか、煙管をやるために登城するのか、彼自身にも判別・・・ 芥川竜之介 「煙管」
・・・己が袈裟に対するその後の愛着の中には、あの女の体を知らずにいる未練がかなり混っている。そうして、その悶々の情を抱きながら、己はとうとう己の恐れていた、しかも己の待っていた、この今の関係にはいってしまった。では今は? 己は改めて己自身に問いか・・・ 芥川竜之介 「袈裟と盛遠」
・・・僕は日頃この家に愛着を持たずにはいられなかった。それは一つには家自身のいかにも瀟洒としているためだった。しかしまたそのほかにも荒廃を極めたあたりの景色に――伸び放題伸びた庭芝や水の干上った古池に風情の多いためもない訣ではなかった。「一つ・・・ 芥川竜之介 「悠々荘」
・・・……私は元来芸術に対しては深い愛着を持っている。芸術上の仕事をしたら自分としてはさぞ愉快だろうと思うことさえある。しかしながら自分の内部的要求は私をして違った道を採らしている」と。これでここに必要な二人の会話のだいたいはほぼ尽きているのだが・・・ 有島武郎 「宣言一つ」
・・・ 流浪漂泊の詩人が、郷土に対して、愛着を感じたのは、たゞ自然ばかりでなく、また人間に於てゞもある。真実を求めて、美を求めて、はてしない旅に上った彼等は、二たびそれを最も近い故郷に見出したのだ。「無産階級に祖国なし」げに、資本主義の波・・・ 小川未明 「彼等流浪す」
・・・我々が永久に此の現実を究めつくすことが出来ないにも繋わらず、而かも恒にそれに対して絶大の愛着を感じ、どうしてもそれから離れる事の出来ないのは、現実が即ち無限の力だからである。 現実は説明の出来ない力であるが、若し芸術家が真に此の現実の前・・・ 小川未明 「囚われたる現文壇」
・・・ さすがに永いヤケな生活の間にも、愛着の種となっていた彼の惣領も、久しぶりで会ってみては、かねがね想像していたようにのんびりと、都会風に色も白く、艶々した風ではなかった。いかにも永い冬と戦ってきたというような萎縮けた、粗硬な表情をしてい・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・ ――食ってしまいたくなるような風景に対する愛着と、幼い時の回顧や新しい生活の想像とで彼の時どきの瞬間が燃えた。また時どき寝られない夜が来た。 寝られない夜のあとでは、ちょっとしたことにすぐ底熱い昂奮が起きる。その昂奮がやむと道・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・彼はそれらの落葉にほのかな愛着を覚えた。 堯は家の横の路まで帰って来た。彼の家からはその勾配のついた路は崖上になっている。部屋から眺めているいつもの風景は、今彼の眼前で凩に吹き曝されていた。曇空には雲が暗澹と動いていた。そしてその下に堯・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・離れ難い愛着を感じる愛欲の男女がこの上の結合が相互の運命を破壊しつくすことが見通されるとき、その絆を断固として断たねばならないことは少なくない。たいていの妻子ある男性との結合は女性にとって、それが素人の娘であるにせよ、あるいはいわゆる囲い者・・・ 倉田百三 「人生における離合について」
出典:青空文庫