・・・そこで彼は敵打の一行が熊本の城下を離れた夜、とうとう一封の書を家に遺して、彼等の後を慕うべく、双親にも告げず家出をした。 彼は国境を離れると、すぐに一行に追いついた。一行はその時、ある山駅の茶店に足を休めていた。左近はまず甚太夫の前へ手・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・私は世なれた人のやさしさを慕う。 私はこんなことを考えながら古河橋のほとりへ来た。そうして皆といっしょに笑いながら足尾の町を歩いた。 雑誌の編輯に急がれて思うようにかけません。宿屋のランプの下で書いた日記の抄録に止めます。・・・ 芥川竜之介 「日光小品」
・・・女猫を慕う男猫の思い入ったような啼声が時折り聞こえる外には、クララの部屋の時計の重子が静かに下りて歯車をきしらせる音ばかりがした。山の上の春の空気はなごやかに静かに部屋に満ちて、堂母から二人が持って帰った月桂樹と花束の香を隅々まで籠めていた・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・あの大勢の人声は、皆、貴下の名誉を慕うて、この四阿へ見に来るのです。御覧なさい、あなたがお仕事が上手になると、望もかなうし、そうやってお身体も輝くのに、何が待遠くって、道ならぬ心を出すんです。 こうして私と将棊をさすより、余所の奥さんと・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・まだまだ足りない、もっとその巡査を慕うてもらいたいものだ」 女はこらえかねて顔を振り上げ、「伯父さん、何がお気に入りませんで、そんな情けないことをおっしゃいます、私は、……」と声を飲む。 老夫は空嘯き、「なんだ、何がお気に入・・・ 泉鏡花 「夜行巡査」
・・・ 饑渇く如く義を慕う者は福なり、其故如何? 其人の饑渇は充分に癒さるべければ也とのことである、而して是れ現世に於て在るべきことでない事は明である、義を慕う者は単に自己にのみ之を獲んとするのではない、万人の斉く之に与からんことを欲するので・・・ 内村鑑三 「聖書の読方」
・・・ しかし、こうした話が持ち上がると、自由を慕う本能が、みんなの心の中に目覚めたのでした。「ゆこう、ゆこう、ここで、こうして意気地なく、この冬を送るよりか、翼の力のつづくかぎり、広い、自由な、そして、安全な世界を探しに出かけようじゃな・・・ 小川未明 「がん」
常に其の心は、南と北に憧がれる。 陰惨なペトログラードや、モスクワオの生活をするものは、南露西亜の自然と生活をどんなに慕うだろう。また、囚人の行くシベリヤをどんなに眼に描くだろう。彼等は憧がれなしには生きられない人々である。 ・・・ 小川未明 「北と南に憧がれる心」
・・・にしがみついて米一合の銭も稼ごうとせぬ亭主の坂田に、愛想をつかし、三人のひもじい子供を連れて家出をし、うろうろ死に場所を探してさまようたが、背中におぶっていた男の子がお父っちゃん、お父っちゃんと父親を慕うて泣いたので、死に切れずに戻って来た・・・ 織田作之助 「勝負師」
・・・不孝の子を父ははるばると訪ねてきてくれたのだと思うと私はまた新しく涙が出てきたが、私は父を慕う心持で胸がいっぱいになった。「お前も来い! 不憫な子よ、お前の三十五年の生涯だって結局闇から闇に彷徨していたにすぎないんだが、私の年まで活き延びた・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
出典:青空文庫