・・・離婚問題も慰藉料問題も鳥の世界には起こり得ないのである。 自分の到着前には雄が二羽いたそうである。その中の一羽がむやみに暴戻で他の一羽を虐待する。そのたびに今もいる鴨羽の雌は人間で言わば仲を取りなし顔とでもいったような様子でそば近く寄っ・・・ 寺田寅彦 「あひると猿」
・・・われるが、しかしそういう好季節の好天気の休日の交通機関に乗ってゆっくり腰をかけられるチャンスは少ないし、腰かけられたとしても、車内の混雑に起因する肉体的ならびに精神的の苦痛は、目的地の自然から得られる慰藉によって償われるかどうか疑問である。・・・ 寺田寅彦 「異質触媒作用」
・・・孤独な生活を送りながら、それでいて悟りきれずに苦しんでいるあわれな人間にとっては、ケーベルさんのような人が、どこかの領事館の一室にこもったきりで読書と思索にふけっているという考えだけでもどんなに大きな慰藉であったかしれないと思う。その人がも・・・ 寺田寅彦 「二十四年前」
・・・また一茶には森羅万象が不運薄幸なる彼の同情者慰藉者であるように見えたのであろうと想像される。 小宮君も注意したように恋の句、ことに下品の恋の句に一面滑稽味を帯びているのがある。これは芭蕉前後を通じて俳諧道に見らるる特異の現象であろう。こ・・・ 寺田寅彦 「俳諧の本質的概論」
・・・自分には猫の事をかくのがこの上もない慰藉であり安全弁であり心の糧であるような気がする。 Miserable misanthrope この言葉が時々自分を脅かす。人間を愛したいと思う希望だけは充分にもっていながら、あさはかな「私」にさえぎ・・・ 寺田寅彦 「備忘録」
・・・それでもこの寒く冷たい寝床の上で、強烈な日光と生命のみなぎった南国の天地を思うのはこの上もない慰藉であった。 サイクラメンのほうは少し生育が充分でなかった。花にもなんだか生気が少なく、葉も少し縮れ上がって、端のほうはもう鳶色に朽ちかかっ・・・ 寺田寅彦 「病室の花」
・・・そこで自然と、物には専門家と素人の差別が生ずるのだと、珍々先生は自己の廃頽趣味に絶対の芸術的価値と威信とを附与して、聊か得意の感をなし、荒みきった生涯の、せめてもの慰藉にしようと試みるのであったが、しかし何となくその身の行末空恐しく、ああ人・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・平生胸底に往来している感想に能く調和する風景を求めて、瞬間の慰藉にしたいためである。その何が故に、また何がためであるかは、問詰められても答えたくない。唯おりおり寂寞を追求して止まない一種の慾情を禁じ得ないのだというより外はない。 この目・・・ 永井荷風 「放水路」
・・・それでもお石の噂をされることがせめてもの慰藉である。みんなに揶揄われる度に切ない情がこみあげて来てそうして又胸がせいせいとした。其秋からげっそりと寂しいマチが彼の心に反覆された。威勢のいい赤は依然として太十にじゃれついて居た。太十は数年来西・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・かく観ずる裡に、人にも世にも振り棄てられたる時の慰藉はあるべし。かく観ぜんと思い詰めたる今頃を、わが乗れる足台は覆えされて、踵を支うるに一塵だになし。引き付けられたる鉄と磁石の、自然に引き付けられたれば咎も恐れず、世を憚りの関一重あなたへ越・・・ 夏目漱石 「薤露行」
出典:青空文庫