・・・ 髯ある者、腕車を走らす者、外套を着たものなどを、同一世に住むとは思わず、同胞であることなどは忘れてしまって、憂きことを、憂しと識別することさえ出来ぬまで心身ともに疲れ果てたその家この家に、かくまでに尊い音楽はないのである。「衆生既・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・嬉しいにつけても思いのたけは語りつくさず、憂き悲しいことについては勿論百分の一だも語りあわないで、二人の関係は闇の幕に這入ってしまったのである。 十四日は祭の初日でただ物せわしく日がくれた。お互に気のない風はしていても、手にせわしい・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・この後、童も憂き事しげき世の人となりつ、さまざまのこと彼を悩ましける。そのおりおり憶い起こして涙催すはかの丘の白雲、かの秋の日の丘なりき。 二人の旅客 雪深き深山の人気とだえし路を旅客一人ゆきぬ。雪いよいよ深く、・・・ 国木田独歩 「詩想」
・・・きぬぎぬならばやらずの雨とも云うべきに、旅には憂きことのかぎりなり。三本木もゆめ路にすぎて、五戸にて昼飯す。この辺牛馬殊に多し。名物なれど喰うこともならず、みやげにもならず、うれしからぬものなりと思いながら、三の戸まで何ほどの里程かと問いし・・・ 幸田露伴 「突貫紀行」
・・・冷酷な表情になって、 能登の七尾の冬は住憂き と附けた。まったく去来を相手にせず、ぴしゃりと心の扉を閉ざしてしまった。多少怒っている。カチンと堅い句だ。石ころみたいな句である。旋律なく修辞のみ。 魚の骨しはぶるまでの老・・・ 太宰治 「天狗」
・・・あかつきばかり憂きものはなし、とは眠いうらみを述べているのではない。くらきうち眼さえて、かならず断腸のこと、正確に在り。大西郷は、眼さむるとともに、ふとん蹴ってはね起きてしまったという。菊池寛は、午前三時でも、四時でも、やはり、はね起き、而・・・ 太宰治 「HUMAN LOST」
・・・ わが友 ひとこと口走ったが最後、この世の中から、完全に、葬り去られる。そんな胸の奥の奥にしまっている秘密を、君は、三つか四つ――筈である。 憂きわれをさびしがらせよ閑古鳥「日本浪曼派」十一月・・・ 太宰治 「碧眼托鉢」
・・・異郷の空に語る者もない淋しさ佗しさから気まぐれに拵えた家庭に憂き雲が立って心が騒ぐのだろう。こんな時にはかたくななジュセッポの心も、海を越えて遥かなイタリアの彼方、オレンジの花咲く野に通うて羇旅の思いが動くのだろうと思いやった事もある。細君・・・ 寺田寅彦 「イタリア人」
・・・川竹の憂き身をかこつ哥沢の糸より細き筆の命毛を渡世にする是非なさ……オット大変忘れたり。彼というは堂々たる現代文士の一人、但し人の知らない別号を珍々先生という半可通である。かくして先生は現代の生存競争に負けないため、現代の人たちのする事は善・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・住み憂き土地にはあれどわれ時折東京をよしと思うは偶然かかる佳景に接する事あるがためなり。 巴里にては夏のさかりに夕立なし。晩春五月の頃麗都の児女豪奢を競ってロンシャンの賽馬に赴く時、驟雨濺来って紅囲粉陣更に一段の雑沓を来すさま、巧にゾラ・・・ 永井荷風 「夕立」
出典:青空文庫