・・・色の蒼白い、目の沾んだ、どこか妙な憂鬱な、――」「それだけわかっていれば大丈夫だ。目がまわったも怪しいもんだぜ。」 飯沼はもう一度口を挟んだ。「だからその中でもといっているじゃないか? 髪は勿論銀杏返し、なりは薄青い縞のセルに、・・・ 芥川竜之介 「一夕話」
・・・ただ保吉の覚えているのは、いつか彼を襲い出した、薄明るい憂鬱ばかりである。彼はパイプから立ち昇る一すじの煙を見守ったまま、しばらくはこの憂鬱の中にお嬢さんのことばかり考えつづけた。汽車は勿論そう云う間も半面に朝日の光りを浴びた山々の峡を走っ・・・ 芥川竜之介 「お時儀」
・・・彼はほとんど悒鬱といってもいいような不愉快な気持ちに沈んで行った。おまけに二人をまぎらすような物音も色彩もそこには見つからなかった。なげしにかかっている額といっては、黒住教の教主の遺訓の石版と、大礼服を着ていかめしく構えた父の写真の引き延ば・・・ 有島武郎 「親子」
・・・或る時は彼れを怒りっぽく、或る時は悒鬱に、或る時は乱暴に、或る時は機嫌よくした。その日の酒は勿論彼れを上機嫌にした。一緒に飲んでいるものが利害関係のないのも彼れには心置きがなかった。彼れは酔うままに大きな声で戯談口をきいた。そういう時の彼れ・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・も同じく挙げ、袖を振動かせば、斉しく振動かし、足を爪立つれば爪立ち、踞めば踞むを透し視めて、今はしも激しく恐怖し、慌しく駈出帽子を目深に、オーバーコートの鼠色なるを被、太き洋杖を持てる老紳士、憂鬱なる重き態度にて登場。初の烏ハタ・・・ 泉鏡花 「紅玉」
・・・ 七八年過ぎてから人の話に聞けば、お松は浜の船方の妻になったが、夫が酒呑で乱暴で、お松はその為に憂鬱性の狂いになって間もなく死んだという事であった。 伊藤左千夫 「守の家」
・・・飴チョコは、憂鬱な日を送ったのであります。 やがてまた、寒さに向かいました。そして、冬になると、雪はちらちらと降ってきました。天使は田舎の生活に飽きてしまいました。しかし、どうすることもできませんでした。ちょうど、この店にきてから、一年・・・ 小川未明 「飴チョコの天使」
・・・しかし、憂鬱な青木は、やはり黙っていました。 こんなに陰気な生活をして、なにがおもしろいのだろうと、草は青木のことを思いました。青木には、みつばちもあぶも、ちょうも訪ねてきませんでした。それにひきかえて、草には、朝から晩まで、ちょうや、・・・ 小川未明 「小さな草と太陽」
・・・声が先であとから大きな涙がぽたぽた流れ落ち、そんなおおげさな泣き声をあとに、軽部は憂鬱な散歩に出かけた。出しなに、ちらりと眼にいれた肩の線が何がなし悩ましく、ものの三十分もしないうちに帰ってくると、お君の姿が見えぬ。 火鉢の側に腰を浮か・・・ 織田作之助 「雨」
・・・読者も憂鬱だろうが、私も憂鬱である。書かれる大阪も憂鬱であろう。 私の友人に、寝る前に香り高い珈琲を飲まなければ眠れないという厄介な悪癖の持主がいる。飲む方も催眠剤に珈琲を使用するようでは、全く憂鬱だろうが、そんな風に飲まれる珈琲も恐ら・・・ 織田作之助 「大阪の憂鬱」
出典:青空文庫