・・・つまり正当なる社会の偽善を憎む精神の変調が、幾多の無理な訓練修養の結果によって、かかる不正暗黒の方面に一条の血路を開いて、茲に僅なる満足を得ようとしたものと見て差支ない。あるいはまたあまりに枯淡なる典型に陥り過ぎてかえって真情の潤いに乏しく・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・ 父と母とは自分たちのつくったものが、望むようなものに成らなければ、これを憎むと共に、また自分たちの薫陶の力の足りなかったことを悲しむであろう。猫が犬よりも人に愛せられないのは、犬のように柔順でないからである。わたくしの父はわたくしが文・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・しかし、憎むべきところのない男である。善吉が吉里を慕う情の深かッただけ、平田という男のあッたためにうるさかッたのである。金に動く新造のお熊が、善吉のために多少吉里の意に逆らッたのは、吉里をして心よりもなお強く善吉を冷遇しめたのである。何だか・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・それまでは、何処やら君の虚偽を感じてはいてもはっきり君を憎むという心もなかったが、その時から僕は君を憎み始めて、君から遠ざかるようにした。その後僕は君と交っている間、君の毒気に中てられて死んでいた心を振い起して高い望を抱いたのだが、そのお蔭・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・しかるに残酷なる病の神は、それさえも憎むと見えて、朝々一番鶏二番鶏とうたい出す彼の声は、夜もねられずに病牀に煩悶して居る予の頭をいよいよ攪乱するので、遂に四、五人の人夫の手をかけて、彼の鳥籠は病室の外から遠ざけられ、向うの庭の隅に移されてし・・・ 正岡子規 「病牀苦語」
・・・この社会にあっては条理にあわないことを、ないようにしてゆくこと。憎むべきものを凜然として憎むこと。その心の力がなくて、どこに愛が支えをもつでしょうか。 愛とか幸福とか、いつも人間がこの社会矛盾の間で生きながら渇望している感覚によって、私・・・ 宮本百合子 「愛」
・・・大人の世界の思いやりなさを憎むだろう。イレーネにすれば、利己主義と名をつけられて、承知出来るような心の動機で、気が狂わんばかりになっているのではない。これまで自分の心にあふれていて、その要素はいろいろな愛情を未熟に熱烈にひとっかたまりにぶつ・・・ 宮本百合子 「雨の昼」
・・・しかるに最初からの行きがかりを知っていてみれば、一族のものを悪人として憎むことは出来ない。ましてや年来懇意にした間柄である。婦女の身としてひそかに見舞うのは、よしや後日に発覚したとて申しわけの立たぬことでもあるまいという考えで、見舞いにはや・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・特にその才能の乏しいのを嘲うような態度は、恐ろしい冷酷として、むしろ憎むべき事に思います。才能の乏しいのは確かにいい事ではないでしょう。しかし才能が人間のすべてではありません。才能の乏しい者にも愛すべき者があり才能の豊かな者にも卑しむべき者・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
・・・そうしてこの恐ろしい悲惨な戦争を起こした少数の怪物たちを、共通の敵として憎むことに同意する。 ここでばかばかしく無意義に見えた現戦争が、文化史的に非常に重大な意義を獲得する事になる。すなわち文芸復興期以後二十世紀まで続いて来た自然科学と・・・ 和辻哲郎 「世界の変革と芸術」
出典:青空文庫