・・・ 骨組のしっかりした男の表情には、憎悪と敵愾心が燃えていた。それがいつまでも輝いている大きい眼から消えなかった。 四 百姓たちは、たびたび××の犬どもを襲撃した経験を持っていた。 襲撃する。追いかえされる・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
・・・自分に対して甚しく憎悪でもしているかとちょっと感じたが、自分には何も心当りも無い。で、「どうかなさいましたか。」と訊く。返辞が無い。「気色が悪いのじゃなくて。」とまた訊くと、うるさいと云わぬばかりに、「何とも無い。」・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・これも驚いて仰反って倒れんばかりにはなったが、辛く踏止まって、そして踏止まると共に其姿勢で、立ったまま男を憎悪と憤怒との眼で睨み下した。悍しい、峻しい、冷たい、氷の欠片のような厳しい光の眼であった。しかし美しいことは美しい、――悪の美しさの・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・ 彼奴等に対する「憎悪」でこの赤ん坊を育て上げてやるんだ、と。 お君が首になったというので、メリヤス工場の若い職工たちは寄々協議をしていた。お君の夫がこの工場から抜かれて行ってから、工場主は恐いものがいなくなったので、勝手なことを職工達・・・ 小林多喜二 「父帰る」
・・・ その言葉の響きには、私の全身鳥肌立ったほどの凄い憎悪がこもっていました。「勝手にしろ!」と叫ぶ夫の声は既に上ずって、空虚な感じのものでした。 私は起きて寝巻きの上に羽織を引掛け、玄関に出て、二人のお客に、「いらっしゃいまし・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・ないのですが、読者は各々勝手に味わい楽しむがよかろう。なかなか、ここは、いいところなのであります。また、劈頭の手紙の全文から立ちのぼる女の「なま」な憎悪感に就いては、原作者の芸術的手腕に感服させるよりは、直接に現実の生ぐさい迫力を感じさせる・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・あの人は私を賤しめ、憎悪して居ります。私は、きらわれて居ります。私はあの人や、弟子たちのパンのお世話を申し、日日の飢渇から救ってあげているのに、どうして私を、あんなに意地悪く軽蔑するのでしょう。お聞き下さい。六日まえのことでした。あの人はベ・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
・・・二度目の殺人など、洗面場で手を洗ってその手をふくハンケチの中からピストルの弾を乱発させるという卑怯千万な行為であるにかかわらず、観客の頭にはあらかじめ被殺害者に対する憎悪という魔薬が注射されているから、かえって一種の痛快な感じをいだかせ、こ・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(4[#「4」はローマ数字、1-13-24])」
・・・せられたとき、痛くないという約束のが飛び上がるほど痛くて、おまけにそのあとの痛みが手術前の痛みに数倍して持続したので、子供心にひどく腹が立って母にくってかかり、そうしてその歯医者の漆黒な頬髯に限りなき憎悪を投げつけたことを記憶している。コカ・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・もしも国民の大多数の尊敬しあるいは憎悪するような人が死にでもすればそのうわさは口から口へいわゆる燎原の火のように伝えられるものである。三月三日に井伊大老の殺された報知が電信も汽車もない昔に、五日目にはもう土佐の高知に届いたという事実がある。・・・ 寺田寅彦 「一つの思考実験」
出典:青空文庫