・・・「あるいはこれも、己の憐憫を買いたくないと云う反抗心の現れかも知れない。」――己はまたこうも考えた。そうしてそれと共に、この嘘を暴露させてやりたい気が、刻々に強く己へ働きかけた。ただ、何故それを嘘だと思ったかと云われれば、それを嘘だと思った・・・ 芥川竜之介 「袈裟と盛遠」
・・・――或は愛よりも憐憫かも知れない。が、兎に角「人間らしさ」にも動かされぬようになったとすれば、人生は到底住するに堪えない精神病院に変りそうである。Swift の畢に発狂したのも当然の結果と云う外はない。 スウィフトは発狂する少し前に、梢・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・無智愚昧の衆生に対する、海よりも深い憐憫の情はその青紺色の目の中にも一滴の涙さえ浮べさせたのである。こう言う大慈悲心を動かした如来はたちまち平生の神通力により、この年をとった除糞人をも弟子の数に加えようと決心した。 尼提の今度曲ったのも・・・ 芥川竜之介 「尼提」
・・・が、憐憫とか同情とかは一度も感じたことはなかった。もし感じたと云うものがあれば、莫迦か嘘つきかだとも信じていた。しかし今その子供の乞食が頸を少し反らせたまま、目を輝かせているのを見ると、ちょいといじらしい心もちがした。ただしこの「ちょいと」・・・ 芥川竜之介 「保吉の手帳から」
・・・第四階級は他階級からの憐憫、同情、好意を返却し始めた。かかる態度を拒否するのも促進するのも一に繋って第四階級自身の意志にある。 私は第四階級以外の階級に生まれ、育ち、教育を受けた。だから私は第四階級に対しては無縁の衆生の一人である。私は・・・ 有島武郎 「宣言一つ」
・・・ 中にも独り老木の梅が大事にする恩償として、今年も沢山花をつけて見せたが、目立つ枯枝にうたた憐憫の情を催おさざるを得なかったのであります。 小川未明 「春風遍し」
・・・と、自分は多少の憐憫を含めた気持で、彼女のそうした様子を眺めて、思ったりした。「蠢くもの」では、おせいは一度流産したことになっている。何カ月目だったか、とにかく彼女のいわゆるキューピーのような恰好をしていたのを、彼女の家の裏の紅い桃の木・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・ そして見ると、自分の周囲には何処かに悲惨の影が取巻ていて、人の憐愍を自然に惹くのかも知れない。自分の性質には何処かに人なつこいところがあって、自と人の親愛を受けるのかもしれない。 何れにせよ、自分の性質には思い切って人に逆らうこと・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・ 土は、老人の憐憫を求める叫声には無関心になだれ落ちた。 兵卒は、老人の唸きが聞えるとぞっとした。彼等は、土をかきこんで、それを遮断しようがために、無茶苦茶にシャベルを動かした。 土は、穴を埋め、二尺も、三尺も厚く蔽いかぶせられ・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・と質すと、源三は術無そうに、かつは憐愍と宥恕とを乞うような面をして微に点頭た。源三の腹の中は秘しきれなくなって、ここに至ってその継子根性の本相を現してしまった。しかし腹の底にはこういう僻みを持っていても、人の好意に負くことは甚く心苦しく・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
出典:青空文庫