・・・年をへだて、事情の変ったいま眺めなおしたとき、その写真は私の心に憐憫を催おさせるのであった。 一九三八年一月から、翌年のなかばごろまで、日本では数人の作家・評論家たちが、内務省の秘密な指図で、作品発表の機会を奪われた。そのころ内務省の中・・・ 宮本百合子 「ある回想から」
・・・日本の都市と云われた集合地の立体性の皆無さにおどろき 日本の近代文化のおくれた足どりに憐憫とやや嫌悪を抱くだろう。生活上の見聞と感覚の発達した日本人はそう感じるのである。 観光日本が眼をたのしませる何をもつか、ということも大切だろうが其・・・ 宮本百合子 「観光について」
・・・五十七歳の時のケーテの自画像には、しずかな老婦人の顔立のうちに、刻苦堅忍の表情と憐憫の表情と、何かを待ちかねているような思いが湛えられている。 晩年のケーテの作品のあるものには、シムボリックな手法がよみがえっている。が、そこには初期の作・・・ 宮本百合子 「ケーテ・コルヴィッツの画業」
・・・相当愛に確信のある夫婦でも妻の方が永年の病にかかったとしたら、妻であるその人に向けられている劬り、憐憫、愛にかわりはないとして、良人のその態度に妻は決して赤子のように抱かれきってはいられまい。心理的にどこかで我が身をひいて考える。その心持に・・・ 宮本百合子 「『静かなる愛』と『諸国の天女』」
・・・ 自動車の厚い窓硝子の中から、ちらりと投げた視線に私の後姿を認めた富豪の愛らしい令嬢たちは、きっと、その刹那憐憫の交った軽侮を感じるだろう。彼女は女らしい自分流儀の直覚で、佇んでいる私の顔を正面から見たら、浅間しい程物慾しげな相貌を尖ら・・・ 宮本百合子 「小景」
・・・私は、シャツ一枚の運転手や長い脛を力一杯踏ばっても猶よろよろしながら片手で大切そうに鞄を押える俄車掌の姿を、憐憫と憤怒のまじりあった感情で見つめるのであった。 私のその視線が、揺れながら進行するバスの中で一つのものに止った。ステップに近・・・ 宮本百合子 「電車の見えない電車通り」
・・・への騒ぎに対しては皮肉と憐憫とを感じていたかを語っている。またイギリスの最も傑出した作家の一人、サッカレーの作品はその傑作「虚栄の市」の中で、光彩陸離と、なり上り結婚のために友情も信義もけちらかして我利をたくらむやり手な美しい女性を描いた。・・・ 宮本百合子 「人間の結婚」
・・・美しい目は軽侮、憐憫、嘲罵、翻弄と云うような、あらゆる感情を湛えて、異様に赫いている。 私は覚えず猪口を持った手を引っ込めた。私の自尊心が余り甚だしく傷けられたので、私の手は殆ど反射的にこの女の持った徳利を避けたのである。「あら。ど・・・ 森鴎外 「余興」
・・・しかし私は、興奮して鼻の先を赤くしている彼女の前に立った時、憐愍と歯がゆさのみを感じていた。性格の弱さと浮誇の心とが彼女を無恥にし無道徳にしている。彼女の意志を強め、彼女に自信を獲得させることが、やがて彼女を救うことになるだろう。より強い力・・・ 和辻哲郎 「転向」
・・・そうして最後の『明暗』に至って憤怒はほとんど憐愍に近づき、同情はほとんど全人間に平等に行きわたろうとしている。顧みてこの十三年の開展を思うとき、先生もはるかな道を歩いて来たものだと思う。 その経路を概観してみると、『猫』の次に『野分』に・・・ 和辻哲郎 「夏目先生の追憶」
出典:青空文庫