・・・と筆を投じて憤りを示したほどであったが、当時は順逆乱れ、国民の自覚奮わず、世はおしなべて権勢と物益とに阿付し、追随しつつあった。荘園の争奪と、地頭の横暴とが最も顕著な時代相の徴候であった。 日蓮の父祖がすでに義しくして北条氏の奸譎のため・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・だが、本当に誰れかの手先に使われて、寒い冬を過したシベリアのことは、いまだに憤りを覚えずにはいられない。 若し、も一度、××の生活を繰りかえせと云われたら、私は、真平御免を蒙る。 黒島伝治 「入営前後」
・・・魔物が其中に在ることは在るに違無いが何処に在るか分らないので、吾が頼むところの利器の向け処を知らぬ悩みに苦しめられ、そして又今しがた放った箭が明らかに何も無いところに取りっぱなしにされた無効さの屈辱に憤りを覚えた。福々爺もやや福々爺で無くな・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・中にはそういう物乞いに慣れ、逆に社会の不合理を訴え、やる瀬のない憤りを残して置いて行くような人々も少なくない。私は自分に都合のできるだけの金をそういう人々の前に置き、「まっこと困ったら、来たまえ。」 と、よく言い添えた。そして、それ・・・ 島崎藤村 「分配」
・・・ この長男が、いまに急に成長し、父母の心配を憤り嘲笑するようになってくれたら! 夫婦は親戚にも友人にも誰にも告げず、ひそかに心でそれを念じながら、表面は何も気にしていないみたいに、長男をからかって笑っている。 母も精一ぱいの努力で生きて・・・ 太宰治 「桜桃」
・・・そろそろもうアイスクリームの冷たくないのに屈辱の余味を帯びた憤懣を感じ、タオルの偶然な差別待遇にさえ世に捨てられでもしたような悲しみと憤りを覚えることの可能な年齢に近づきつつあるのかもしれない。 こんな事をうかうか考えている自分を発見す・・・ 寺田寅彦 「三斜晶系」
・・・苦しみも、憂いも、恨みも、憤りも――世に忌わしきものの痕なければ土に帰る人とは見えず。 王は厳かなる声にて「何者ぞ」と問う。櫂の手を休めたる老人は唖の如く口を開かぬ。ギニヴィアはつと石階を下りて、乱るる百合の花の中より、エレーンの右の手・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・ ボースンは、からかわれていると思って、遂々憤り出してしまった。「酔っ払ったって死ぬことがあるじゃないか! ボースン! 安田だって仲間だぜ! 不人情なことを云うと承知しねえぞ、ボースン、ボースンと立てときゃ、いやに親方振りやがって、・・・ 葉山嘉樹 「労働者の居ない船」
・・・されば、かの貴賓もその芸妓の何ものたるを知らざりしこそ幸いなれ、もしも内実の事情を聞くこともありしならんには、饗応の満足に引替えて、失敬無状を憤りしことなるべし。これとてもさきの紳士連中は無礼と知りて行うたるにあらず、その平生において、男女・・・ 福沢諭吉 「日本男子論」
・・・のルスタムをも彼の憤りをどう表現してよいか分らない状態にとどめて筆を擱いていることは面白い。 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第二巻)」
出典:青空文庫