・・・ 今は最う、さっきから荷車が唯辷ってあるいて、少しも轣轆の音の聞えなかったことも念頭に置かないで、早くこの懊悩を洗い流そうと、一直線に、夜明に間もないと考えたから、人憚らず足早に進んだ。荒物屋の軒下の薄暗い処に、斑犬が一頭、うしろ向に、・・・ 泉鏡花 「星あかり」
・・・その懊悩さに堪えざれば、手を以て去れと命ずれど、いっかな鼻は引込まさぬより、老媼はじれてやっきとなり、手にしたる針の尖を鼻の天窓に突立てぬ。 あわれ乞食僧は留を刺されて、「痛し。」と身体を反返り、涎をなすりて逸物を撫廻し撫廻し、ほうほう・・・ 泉鏡花 「妖僧記」
・・・しかし帰農したらば安静を得られようと思うのが、あるいは一時の懊悩から起こるでき心かもしれない。 とにかく去年から今年へかけての、種々の遭遇によって、僕はおおいに自分の修業未熟ということを心づかせられた。これによって君が僕をいままでわから・・・ 伊藤左千夫 「去年」
・・・ 不安――恐怖――その堪えがたい懊悩の苦しみを、この際幾分か紛らかそうには、体躯を運動する外はない。自分は横川天神川の増水如何を見て来ようとわれ知らず身を起した。出掛けしなに妻や子供たちにも、いざという時の準備を命じた。それも準備の必要・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・ 軽部は懊悩した。このことはきっと出世のさまたげになるだろうと思った。ついでに、良心の方もちくちく痛んだ。あの娘は姙娠しよるやろか、せんやろかと終日思い悩み、金助が訪ねてこないだろうかと怖れた。「教育上の大問題」そんな見出しの新聞記事を・・・ 織田作之助 「雨」
・・・この懊悩よ、有難う。 私は、自身の若さに気づいた。それに気づいたときには、私はひとりで涙を流して大笑いした。 排除のかわりに親和が、反省のかわりに、自己肯定が、絶望のかわりに、革命が。すべてがぐるりと急転廻した。私は、単純な男である・・・ 太宰治 「一日の労苦」
・・・所詮、作者の、愚かな感傷ではありますが、殺された女学生の亡霊、絶食して次第に体を萎びさせて死んだ女房の死顔、ひとり生き残った悪徳の夫の懊悩の姿などが、この二、三日、私の背後に影法師のように無言で執拗に、つき従っていたことも事実であります。・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・ 教養と、理智と、審美と、こんなものが私たちを、私を、懊悩のどん底の、そのまた底までたたき込んじゃった。十郎様。この度の、全く新しい小さな愛人のために、およろこび申し上げます。笑われても殺されてもいい、一生に一度のおねがい、お医者さまに・・・ 太宰治 「古典風」
・・・私は冗談でなく懊悩と、焦躁を感じた。知りたい。この汽船の大勢の人たちの中で、私ひとりだけが知らない変な事実があるのだ。たしかにあるのだ。海面は、次第に暗くなりかけて、問題の沈黙の島も黒一色になり、ずんずん船と離れて行く。とにかく之は佐渡だ。・・・ 太宰治 「佐渡」
・・・、その内容の物語とおなじく悲劇的な結末を告げたけれど、彼の心のなかに巣くっている野性の鶴は、それでも、なまなまと翼をのばし、芸術の不可解を嘆じたり、生活の倦怠を託ったり、その荒涼の現実のなかで思うさま懊悩呻吟することを覚えたわけである。・・・ 太宰治 「猿面冠者」
出典:青空文庫