・・・ 遠藤は手紙を読み終ると、懐中時計を出して見ました。時計は十二時五分前です。「もうそろそろ時刻になるな、相手はあんな魔法使だし、御嬢さんはまだ子供だから、余程運が好くないと、――」 遠藤の言葉が終らない内に、もう魔法が始まる・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・――お澄が念のため時間を訊いた時、懐中時計は二時半に少し間があった。「では、――ちょっと、……掃除番の目ざとい爺やが一人起きましたから、それに言って、心得さす事がありますから。」と軽く柔にすり抜けて、扉の口から引返す。……客に接しては、・・・ 泉鏡花 「鷭狩」
・・・私は笑いながら、ズボンのポケットから懐中時計を出して、「これが残った。机の上にあったから、家を出る時にポケットにねじ込んで走ったのだ。」 それは、海軍の義弟の時計であったが、私が前から借りて私の机の上に置いていたものなのだ。「よ・・・ 太宰治 「薄明」
・・・朝晩に見ている懐中時計の六時がどんな字で書いてあるかと人に聞かれるとまごつくくらいであるが、写真の目くらい記憶力のすぐれた目もまた珍しい。一秒の五十分の一くらいな短時間にでもあらゆるものをすっかり認めて一度に覚え込んでしまうのである。 ・・・ 寺田寅彦 「カメラをさげて」
・・・「あなたの懐中時計の六時の所はどんな数字が書いてありますか」と聞いてみると、大概の人はちょっと小首をかしげて考え込んでしまう。実物を出して見ると、六時の所はちょうど秒針のダイアルになっているのである。 こういう認識不足の場合はいいが・・・ 寺田寅彦 「錯覚数題」
・・・ 私はこのような考えを正す目的で、時々最寄りの停留所に立って、懐中時計を手にしては、そこを通過する電車のトランシットを測ってみた。その一例として去る六月十九日の晩、神保町の停留所近くで八時ごろから数十分間巣鴨三田間を往復する電車について・・・ 寺田寅彦 「電車の混雑について」
朝早く目がさめるともうなかなか二度とは寝つかれない。この病院の夜はあまりに静かである。二つの時計――その一つは小形の置き時計で、右側の壁にくっつけた戸棚の上にある、もう一つは懐中時計でベットの頭の手すりにつるしてある――こ・・・ 寺田寅彦 「病院の夜明けの物音」
・・・不思議だと思って懐中時計の音で左右の耳の聴力を試験してみると、左の耳が振動数の多い音波に対して著しく鈍感になっている事が分った。のみならず雨戸をしめて後に寝床へはいるとチンチロリンの声が聞こえなかった。すぐ横にねている子供にはよく聞こえてい・・・ 寺田寅彦 「厄年と etc.」
・・・と圭さんは懐中時計を出す。「四時五分前だ。暗いのは天気のせいだ。しかしこう方角が変って来ると少し困るな。山へ登ってから、もう二三里はあるいたね」「豆の様子じゃ、十里くらいあるいてるよ」「ハハハハ。あの煙りが前に見えたんだが、もうずっ・・・ 夏目漱石 「二百十日」
私が女学校を出た年の秋ごろであったと思う。父が私に一つ時計を買ってくれた。生れてはじめての時計であった。ウォルサムの銀の片側でその時分腕時計というのはなかったから円くて平たい小型の懐中時計である。私は、それに黒いリボンをつ・・・ 宮本百合子 「時計」
出典:青空文庫