・・・と女は片唾を呑んで、懸念の眼をみはる。「鞍に堪えぬほどにはあらず。夏の日の暮れがたきに暮れて、蒼き夕を草深き原のみ行けば、馬の蹄は露に濡れたり。――二人は一言も交わさぬ。ランスロットの何の思案に沈めるかは知らず、われは昼の試合のまたある・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・父母の懸念が道徳上の着色を帯びて、好悪の意味で、娘の夫に反射するようになったのはこの時からである。彼らは気の毒な長女を見るにつけて、これから嫁にやる次女の夫として、姉のそれと同型の道楽ものを想像するにたえなくなった。それで金はなくてもかまわ・・・ 夏目漱石 「手紙」
・・・のみならずこれからやる中味と形式という問題が今申した通りあまり乾燥して光沢気の乏しいみだしなのでことさら懸念をいたします。が言訳はこのくらいでたくさんでしょうからそろそろ先へ進みましょう。 私は家に子供がたくさんおります。女が五人に男が・・・ 夏目漱石 「中味と形式」
・・・ あらいざらいの金を、お手っぱらいに出した後をどうするのだろうと云う懸念が、栄蔵の頭からはなれなかった。 けれ共、行かないわけには行かない。「お君も、縁に薄い子だすえなあ。 貧乏な親は持つし、いやな姑はんに会うし。・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・ハガキをうちかえして眺めながらこっちからやるときは名まで書いてやれることを胴忘れして、もし同じ部隊に同じ苗字のひとが二人いたらどうするのだろうかと不図懸念したりした。 一枚のハガキが来たきりで、又暫く音信が絶えていたところ、先日不意に航・・・ 宮本百合子 「くちなし」
・・・もちろんそれらのことは、はじめから私にわかっていることであり、あなたが懸念なくいらっしゃる如く、私も全く懸念ないのですが、あなたから響ある言葉をきけば一層のことです。この間書いた手紙をよんでいらっしゃれば、私のかくもののこと、もうあらましの・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・勿論、芸術品に対してそんな下劣な観賞者の言葉を気にする必要はないわけですが、この懸念が実際に女の心の中にあるのは、争われない事実であります。 二 仮りにそうしたデリケートな場合を想像するならば、此処に一人の・・・ 宮本百合子 「今日の女流作家と時代との交渉を論ず」
・・・農村の生活で自然の美を謳うより先に懸念されるのはその自然との格闘においてどれだけの収穫をとり得るかという心痛であり、しかも、それは現代の経済段階においては、純粋な労働の成果に関する関心ではなくて、債鬼への直接的連想の苦しみなのである。せんだ・・・ 宮本百合子 「自然描写における社会性について」
・・・予はこれを語るにつけても、主筆猪股君がこの原稿に接して、早く既に同じ周章をせねば好いがと懸念する。予の公衆に語る習はこれにも屈せず、予は終に人の己を席に延くを待たぬようになった。自ら席を設けて公衆に語るようになった。柵草紙と云ったのがその席・・・ 森鴎外 「鴎外漁史とは誰ぞ」
・・・情偽があろうかという、佐佐の懸念ももっともだというので、白州へは責め道具を並べさせることにした。これは子供をおどして実を吐かせようという手段である。 ちょうどこの相談が済んだところへ、前の与力が出て、入り口に控えて気色を伺った。「ど・・・ 森鴎外 「最後の一句」
出典:青空文庫