・・・――それが、まだ一番鶏も鳴かないのに、こっそり床をぬけ出して、酒臭い唇に、一切衆生皆成仏道の妙経を読誦しようとするのである。…… 阿闍梨は褊袗の襟を正して、専念に経を読んだ。 それが、どのくらいつづいたかわからない。が、暫くすると、・・・ 芥川竜之介 「道祖問答」
・・・「おお、成仏をさっしゃるずら、しおらしい、嫁菜の花のお羽織きて、霧は紫の雲のようだ、しなしなとしてや。」 と、苔の生えたような手で撫でた。「ああ、擽ったい。」「何でがすい。」 と、何も知らず、久助は墓の羽織を、もう一撫で・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・ドラ床の中で朝まで安楽成仏としようかな。今朝の野郎なんかまだ浮かばれねエでレールの上を迷ってるだろうよ。』『チョッ薄気味の悪イ! ねエもうこんなところは引っ越してしまいたいねエ。』女房は心細そうに言った。『ばか言ってらア、死ぬる奴は・・・ 国木田独歩 「郊外」
・・・ それが人間としての本当の向上というもので、ついには人間をこえたみ仏の位にまで達することができるので、そうなれば女人成仏の本懐をとげるわけである。そしてみ仏になるといっても、この人間のそのままであるところにさとりの極意があるのだ。 ・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・ 急ごしらえの坊主の誦経が、いかに声高く樹々の間にひびき渡ろうとも、それによって自ら望まない死者が安らかに成仏しようとは信じられるか! そのあとに、もろい白骨以外何が残るか!「まだ、俺等は、いゝくじを引きあてたんか!」彼等はまた考え・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・たの恋のお百度秋子秋子と引きつけ引き寄せここらならばと遠くお台所より伺えば御用はないとすげなく振り放しはされぬものの其角曰くまがれるを曲げてまがらぬ柳に受けるもやや古なれどどうも言われぬ取廻しに俊雄は成仏延引し父が奥殿深く秘めおいたる虎の子・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・ありのままをありのままに書き得る人があれば、その人は如何なる意味から見ても悪いということを行ったにせよ、ありのままをありのままに隠しもせず漏らしもせず描き得たならば、その人は描いた功徳に依って正に成仏することが出来る。法律には触れます懲役に・・・ 夏目漱石 「模倣と独立」
・・・ 或る小説に或る時代の反応が明かに提出されているということだけが芸術家を成仏せしめるものでもないし、読者に清新な精神の風を吹きおくるものでもない。現代のインテリゲンツィア作家は、自分が現実にどういう反応を示しているかということについ・・・ 宮本百合子 「数言の補足」
出典:青空文庫