・・・あの夜、あの手紙を書き上げて、そのまま翌る朝まで机の上に載せて置いたならば、或いは、心が臆して来て、出せなくなるのではないかと思い、深夜、あの手紙を持って野道を三丁ほど、煙草屋の前のポストまで行って来ましたが、ひどく明るい月夜で、雲が、食べ・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・家庭の幸福は、或いは人生の最高の目標であり、栄冠であろう。最後の勝利かも知れない。 しかし、それを得るために、彼は私を、口惜し泣きに泣かせた。 私の寝ながらの空想は一転する。 ふいと、次のような短篇小説のテーマが、思い浮んで来た・・・ 太宰治 「家庭の幸福」
・・・から半年ほど経って、ご主人は第二国民兵の弱そうなおからだでしたのに、突然、召集されて運が悪くすぐ南洋の島へ連れて行かれてしまった様子で、ほどなく戦争が終っても、消息不明で、その時の部隊長から奥さまへ、或いはあきらめていただかなければならぬか・・・ 太宰治 「饗応夫人」
・・・貴兄の御厚意身に沁みて感佩しています。或いは御厚意裏切ること無いかと案じています。では、取急ぎ要用のみ。前略、後略のまま。大森書房内、高折茂。太宰学兄。」「僕はこの頃緑雨の本をよんでいます。この間うちは文部省出版の明治天皇御集をよんでい・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・遠いものは小さく、近いものは大きく、遠いものは橙や黄いろではっきりし、近いものは青白く少しかすんで、或いは三角形、或いは四辺形、あるいは電や鎖の形、さまざまにならんで、野原いっぱい光っているのでした。ジョバンニは、まるでどきどきして、頭をや・・・ 宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」
・・・ なるほど遠くから見ると虔十は口の横わきを掻いているか或いは欠伸でもしているかのように見えましたが近くではもちろん笑っている息の音も聞えましたし唇がピクピク動いているのもわかりましたから子供らはやっぱりそれもばかにして笑いました。 ・・・ 宮沢賢治 「虔十公園林」
・・・それよりもっとほんとうはこれがお前の中の景色 誰かが、或いは諒安自身が、耳の近くで何べんも斯う叫んでいました。(そうです。そうです。そうですとも。いかにも私の景色です。私なのです。だから仕方諒安はうとうと斯う返事しました。(・・・ 宮沢賢治 「マグノリアの木」
・・・そして一寸からだをひるがえしましたのではねうらが桃色にひらめいて或いはほんとうの火がそこに燃えているのかと思われました。若い木霊の胸は酒精で一ぱいのようになりました。そして高く叫びました。「お前は鴾という鳥かい。」 鳥は「そうさ・・・ 宮沢賢治 「若い木霊」
・・・それが破綻であるか、或いは互いに一層深まり落付き信じ合った愛の団欒か、互いの性格と運とによりましょが、いずれにせよ、行きつくところまで行きついてそこに新たな境地を開かせる本質が恋愛につきものなのです。 自然は、人間の恋愛を唯だ男性と・・・ 宮本百合子 「愛は神秘な修道場」
・・・或る程度までは、自然というか或いは自然律と人間との相互的関係とでもいうべきものがゆるやかで、人間の僭望、また下慾があまやかされて来た。けれども、今は、それ等が余り過度に根を張り、まず種を蒔いたもの――おおくの人間――自身が苦るしくてたえられ・・・ 宮本百合子 「男…は疲れている」
出典:青空文庫