・・・ で、引返して行く女中のあとへついて、出しなに、真中の襖を閉める、と降積る雪の夜は、一重の隔も音が沈んで、酒の座は摺退いたように、ずッと遠くなる……風の寒い、冷い縁側を、するする通って、来馴れた家で戸惑いもせず、暗がりの座敷を一間、壁際を・・・ 泉鏡花 「第二菎蒻本」
・・・――どうかして、座敷へ飛込んで戸惑いするのを掴えると、掌で暴れるから、このくらい、しみじみと雀の顔を見た事はない。ふっくりとも、ほっかりとも、細い毛へ一つずつ日光を吸込んで、おお、お前さんは飴で出来ているのではないかい、と言いたいほど、とろ・・・ 泉鏡花 「二、三羽――十二、三羽」
・・・ と、ありなしの縁に曳かれて、雛妓の小とみ、弟が、かわいい名の小次郎、ともに、杖まで戸惑いしてついて来て、泣いていた、盲目の爺さんが、竹の杖を、お光の手に、手さぐりで握らせるようにして、「持たっしゃれ、縋らっしゃれ。ありがたい仏様が・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・れいに依って大袈裟なお芝居であると思い、平気で聞き流すことが出来ましたが、それよりも、その時、あの人の声に、また、あの人の瞳の色に、いままで嘗つて無かった程の異様なものが感じられ、私は瞬時戸惑いして、更にあの人の幽かに赤らんだ頬と、うすく涙・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
・・・そうして言葉は、いつでも戸惑いをして居ります。わかっているのです。言葉が、うるさくってたまりません。なるほど、それも一理窟だ、というような、そんないい加減な気持で、人の講義を聞いて居ります。言葉は、感覚から千里もおくれているような気がして、・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・文化の表現方法の無い戸惑いである。私はまた、自身にもそれを感じた。けれども同時に私は、それに健康を感じた。ここから、何かしら全然あたらしい文化そんなものが、生れるのではなかろうか。愛情のあたらしい表現が生れるのではなかろうか。私は、自分の血・・・ 太宰治 「十五年間」
・・・少し侘びしく、戸惑いした私の感情も、すぐにその場で、きれいに整理できた。それは、それで、いいのだと思った。 百合の花は、何かあり合せの花瓶に活けて部屋に持って来るよう女中に言いつけて、私は、私の部屋へかえって机のまえに坐ってみた。いい仕・・・ 太宰治 「新樹の言葉」
・・・たとえば水晶で作られたようなプランクトンがスクリーンいっぱいに活動しているのを見る時には、われわれの月並みの宇宙観は急に戸惑いをし始め、独断的な身勝手イデオロギーの土台石がぐらつき始めるような気がするであろう。不幸にしてこういう映画の、こと・・・ 寺田寅彦 「映画の世界像」
・・・もっともその日は特に蒸し暑かったのに、ああいう、設計者が通風を忘れてこしらえた美術館であるためにそれがさらにいっそう蒸し暑く、その暑いための不愉快さが戸惑いをして壁面の絵のほうにぶつかって行ったせいもあるであろう。実際二科院展の開会日に蒸し・・・ 寺田寅彦 「からすうりの花と蛾」
・・・尤もその日は特に蒸暑かったのに、ああいう、設計者が通風を忘れてこしらえた美術館であるためにそれが更に一層蒸暑く、その暑いための不愉快さが戸惑いをして壁面の絵の方に打つかって行ったせいもあるであろう。実際二科院展の開会日に蒸暑くなかったという・・・ 寺田寅彦 「烏瓜の花と蛾」
出典:青空文庫