・・・御戻りになるがものはございますまい。」と云って、一刻も早く鼻の先の祥光院まで行っていようとした。しかし甚太夫は聞かなかった。「鳥目は元より惜しくはない。だが甚太夫ほどの侍も、敵打の前にはうろたえて、旅籠の勘定を誤ったとあっては、末代までの恥・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・……はじめは蘆の葉に縋った蟹が映って、流るる水に漾うのであろう、と見たが、あらず、然も心あるもののごとく、橋に沿うて行きつ戻りつする。さしたての潮が澄んでいるから差し覗くとよく分かった――幼児の拳ほどで、ふわふわと泡を束ねた形。取り留めのな・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・何ぞの用で、小僧も使いに遣られて、煎餅も貰えば、小母さんの易をトる七星を刺繍した黒い幕を張った部屋も知っている、その往戻りから、フトこのかくれた小路をも覚えたのであった。 この魔のような小母さんが、出口に控えているから、怪い可恐いものが・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・ 七兵衛――この船頭ばかりは、仕事の了にも早船をここへ繋いで戻りはせぬ。 毎夜、弁天橋へ最後の船を着けると、後へ引返してかの石碑の前を漕いで、蓬莱橋まで行ってその岸の松の木に纜っておいて上るのが例で、風雨の烈しい晩、休む時はさし措き・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・幾百回考えても、つながれてる犬がその棒をめぐるように、めぐっては元へ返り、返っては元へ戻り、愚にもつかぬ事をぐるぐる考えめぐっていたのだ。泳ぎを知らない人が水の深みへはいったように、省作は今はどうにもこうにも動きがとれない。つまりおとよさん・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・薊はちょっと中戻りしたが、「帰りがけに今一言いっておく。親類も糞もあるもんか、懇意も糸瓜もねいや、えい加減に勝手をいえ、今日限りだ、もうこんな家なんぞへ来るもんか」 薊は手荒く抑える人を押し退けて降りかける。「薊さんそれでは困る・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・しかし、ほかには渡瀬という家がなさそうだから、跡戻りをして、その前をうろついていると、――実は、気が臆してはいりにくかったのだ――「おや、先生」と、吉弥が入り口の板の間まで出て来た。大きな丸髷すがたになっている。「………」僕は敷居を・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・そして、いちはやく馳せ戻り、店に坐って、客の来るのを待ち受けるのだった。しかし、たいして繁昌りもしなかった……。 繁昌らぬのも道理だ。家伝薬だというわけではなし、名前が通っているというわけでもなし、正直なところ効くか効かぬかわからぬ・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・思い切って靴を脱ぎ、片手にぶら下げて、地下道の旅行調整所の前にうずくまって夜明しをしている旅行者の群へ寄って行き、靴はいらんか百円々々と呶鳴ると、これも廉いのかすぐ売れた、十円札にくずして貰い、飾窓へ戻り二晩分十円先払いして、硝子の中で寝た・・・ 織田作之助 「世相」
・・・彼は戻りかけた。しかしもう気持が、寄れないところへ行っていた。彼は別な、公園の道に出た。そこは市役所の裏で暗かった。道の両側には高い樹が並んで立っており、それが上の方で両方枝を交えていた。そして、まだ落ちていない葉にさわる雪のかすかな音が、・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
出典:青空文庫