・・・それ故に、御方様の、たっての御願い、生命にもかかることと思召して、どうぞ吾が手に戻るようの御計らいをと、……」 生命にもかかるの一語は低い声ではあったが耳に立たぬわけには行かなかった。「ナニ、生命にもかかる。」 最高級の言葉を使・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・ 午後に、会社へ戻ると、車夫が車を持って来て彼を待っていた。彼はそれに乗って諸方馳ずり廻るには堪えられなく成って来た。銀行へ行くことも止め、他の会社に人を訪ねることも止め、用達をそこそこに切揚げて、車はそのまま根岸の家の方へ走らせること・・・ 島崎藤村 「刺繍」
・・・ 父は病院に立戻ると間もなく、その日もまだ暮れかけぬ中、急いで東京に帰られた。わたくしは既に十七歳になっていたが、その頃の中学生は今日とはちがって、日帰りの遠足より外滅多に汽車に乗ることもないので、小田原へ来たのも無論この日が始めてであ・・・ 永井荷風 「十六、七のころ」
・・・自分も最う一度そういう程度まで立戻る事が出来たとしたら、どんなに万々歳なお目出度かりける次第であろう……。惆悵として盃を傾くる事二度び三度び。唯見ればお妾は新しい手拭をば撫付けたばかりの髪の上にかけ、下女まかせにはして置けない白魚か何かの料・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・ 話は後へ戻る。その夜唖々子が運出した『通鑑綱目』五十幾巻は、わたしも共に手伝って、富士見町の大通から左へと一番町へ曲る角から二、三軒目に、篠田という軒燈を出した質屋の店先へかつぎ込まれた。 わたしがこの質屋の顧客となった来歴は家へ・・・ 永井荷風 「梅雨晴」
・・・大樹を繞ぐって、逆に戻ると玄関に灯が見える。なるほど家があるなと気がついた。 玄関に待つ野明さんは坊主頭である。台所から首を出した爺さんも坊主頭である。主人は哲学者である。居士は洪川和尚の会下である。そうして家は森の中にある。後は竹藪で・・・ 夏目漱石 「京に着ける夕」
・・・心理学の講筵でもないのにむずかしい事を申上げるのもいかがと存じますが、必要の個所だけをごく簡易に述べて再び本題に戻るつもりでありますから、しばらく御辛抱を願います。我々の心は絶間なく動いている。あなた方は今私の講演を聴いておいでになる、私は・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
・・・眼に余る青草は、風を受けて一度に向うへ靡いて、見るうちに色が変ると思うと、また靡き返してもとの態に戻る。「痛快だ。風の飛んで行く足跡が草の上に見える。あれを見たまえ」と圭さんが幾重となく起伏する青い草の海を指す。「痛快でもないぜ。帽・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・政府は、前にいえる廃藩置県以下の諸件を慊とせずして、論者の持張する改進の旨とまったく相戻るものか。あるいはかりに政府をして改進を悦ばざるものとするも、この事物の変革、人心の騒乱に際して、政府のみひとりその方向を別にするを得べきか。余輩決して・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・ 然ばすなわち我が輩の所業、その形は世情と相反するに似たりといえども、その実はともに天道の法則にしたがいて天賦の才力を用ゆるの外ならざれば、此彼の間、毫も相戻ることなし。前日の事、すでにすでにかくの如し、後日の事、またまさにかくの如くな・・・ 福沢諭吉 「中元祝酒の記」
出典:青空文庫