・・・あのはんのきの黒い木立がじき近くに見えていて、そこまで戻るぐらい、なんの事でもないようでした。 けれども嘉十はぴたりとたちどまってしまいました。 それはたしかに鹿のけはいがしたのです。 鹿が少くても五六疋、湿っぽいはなづらをずう・・・ 宮沢賢治 「鹿踊りのはじまり」
・・・川を戻るよりはここからさっきの道へのぼったほうがいい、傾斜もゆるく丁度のぼれそうだ。〔みんなそこからあの道へ出ろ。〕手を振ったほうがわかるな。わかったわかったわかったようだ。市野川が崖の上のみちを見ている。うしろの滝の上で誰か叫んで・・・ 宮沢賢治 「台川」
・・・「さあ戻るぞ。谷を見て来るかな。」理助は汗をふきながら右の方へ行きました。私もついて行きました。しばらくすると理助はぴたっととまりました。それから私をふり向いて私の腕を押えてしまいました。「さあ、見ろ、どうだ。」 私は向うを見ま・・・ 宮沢賢治 「谷」
・・・働かされ、又働き、そしてその働きによってこそ、疲れて夕刻に戻る家路を保って来ていたのではなかったろうか。 良人を、兄を、父を、戦争で奪われた日本の数百万の婦人は、身をもってこの事情を知りつくしている筈だと思う。 戦争のない日本を創り・・・ 宮本百合子 「合図の旗」
・・・風呂に入りに来たまま泊り、翌日夜になって、翻訳のしかけがある机の前に戻る。そんな日もあった。そこだけ椅子のあるふき子の居間で暮すのだが、彼等は何とまとまった話がある訳でもなかった。ふき子が緑色の籐椅子の中で余念なく細かい手芸をする、間に、・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・ 一太が再び部屋に戻ると、一太の母はやはり元の椅子に、ふてたような顔付をしてかけていた。一人であった。「――おじさんは?」「あちら」「これ御覧、おっかさん、こんなにあったよ」 そこへ男の人が戻って来た。「どうだ、とれ・・・ 宮本百合子 「一太と母」
・・・読んで気のない顔をしたり、一寸顔を蹙めたりして、すぐにまた晴々とした顔に戻るのである。 木村は文学者である。 役所では人の手間取のような、精神のないような、附けたりのような為事をしていて、もう頭が禿げ掛かっても、まだ一向幅が利かない・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・親御に逢ったら、夜でもすぐにお邸へ戻るのだよ。あすになってから、又改めてお暇を願って遣るから」「難有うございます」と、りよはお請をして、老女の部屋をすべり出た。 りよはこのまま往っても好いと考えながら、使とは誰が来たのかと、奥の口へ・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・ 女の子は灸の傍へ戻ると彼の頭を一つ叩いた。 灸は「ア痛ッ。」といった。 女の子は笑いながらまた叩いた。「ア痛ッ、ア痛ッ。」 そう灸は叩かれる度ごとにいいながら自分も自分の頭を叩いてみて、「ア痛ッ、ア痛ッ。」といった・・・ 横光利一 「赤い着物」
・・・そして、戻るとき戸棚の抽出しから白紙を出して、一円包んで出て来ると安次に黙って握らせた。「あかんのや、あかんのや、もうそんなことして貰うたて。」と安次は云って押し返した。 しかし、お留は無理に紙幣を握らせた。「薬飲んでるのか?」・・・ 横光利一 「南北」
出典:青空文庫