・・・銀行から歳暮によこす皮表紙の懐中手帳に、細手の鉛筆に舌の先の湿りをくれては、丹念に何か書きこんでいた。スコッチの旅行服の襟が首から離れるほど胸を落として、一心不乱に考えごとをしながらも、気ぜわしなくこんな注意をするような父だった。 停車・・・ 有島武郎 「親子」
・・・きっと十月、中の十日から二十日の間、三年つづいて十七日というのを、手帳につけて覚えています。季節、天気というものは、そんなに模様の変らないものと見えて、いつの年も秋の長雨、しけつづき、また大あらしのあった翌朝、からりと、嘘のように青空になる・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・巡査が手帳持って覗きに来よる。桃山行きや、消毒やいうて、えらい騒動や。そのあげく、乳飲ましたらあかんぜ、いうことになった。そらそや、いくら何でもチビスの乳は飲めんさかいナ。さア、お腹は空いてくるわ、なんぼ泣いてもほっとかれるわ。お襁褓もかえ・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・私は例の切抜きと手帳と万年筆くらい持ちだして、無断で下宿を出た。「とにかくまあ何も考えずに、田舎で静養してきたまえ、実際君の弱り方はひどいらしい。しかしそれもたんに健康なんかの問題でなくて、別なところ来てるのかもしれないが、しかしとにか・・・ 葛西善蔵 「遁走」
・・・る景色を変え、塊然たる物象を化して夢となし、幻となし、霊となし、怪となし、というに至っては水多く山多き佐伯また実にそうである、しかししいてわが佐伯をウォーズウォルスの湖国と対照する必要はない。手帳と鉛筆とを携えて散歩に出掛けたスコッ・・・ 国木田独歩 「小春」
・・・ 彼の寝台の上には、手帳や、本や、絵葉書など、私物箱から放り出したまゝ散らかっていた。小使が局へ持って行った貯金通帳は、一円という預入金額を記入せずに拡げられてあった。彼は、無断で私物箱を調べられるというような屈辱には馴れていた。が、聯・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・と家内に一言して、餌桶と網魚籠とを持って、鍔広の大麦藁帽を引冠り、腰に手拭、懐に手帳、素足に薄くなった薩摩下駄、まだ低くならぬ日の光のきらきらする中を、黄金色に輝く稲田を渡る風に吹かれながら、少し熱いとは感じつつも爽かな気分で歩き出した・・・ 幸田露伴 「蘆声」
・・・私は縁側に腰をかけ、しぶしぶ懐中から手帖を出した。このように先生が鹿爪らしい調子でものを言い出した時には、私がすぐに手帖を出してそれを筆記しなければならぬ習慣になっていた。いちど私が、よせばいいのに、先生のご機嫌をとろうと思って、先生の座談・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
・・・ろが出て来たので、二、三度、いや、正確に三度、机のうえでころがしてみて、それから、片方に白いふさふさの羽毛を附したる竹製の耳掻きを見つけて、耳穴を掃除し、二十種にあまるジャズ・ソングの歌詞をしるせる豆手帳のペエジをめくり、小声で歌い、歌いお・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・次席訓導は手帖へ、『好奇心』と書き込んだ。それから私と次席訓導とが少し議論を始めた。先生も人間、僕も人間、と書いてあるが、人間というものは皆おなじものか、と彼は尋ねた。そう思う、と私はもじもじしながら答えた。私はいったいに口が重い方であった・・・ 太宰治 「苦悩の年鑑」
出典:青空文庫