・・・ また泣き出したを揺りながら、女房は手持無沙汰に清しい目をみはったが、「何ですね、何が欲いんですね。」 となお物貰いという念は失せぬ。 ややあって、鼠の衣の、どこが袖ともなしに手首を出して、僧は重いもののように指を挙げて、そ・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・百里遠来同好の友を訪ねて、早く退屈を感じたる予は、余りの手持無沙汰に、袂を探って好きもせぬ巻煙草に火をつけた。菓子か何か持って出てきた岡村は、「近頃君も煙草をやるのか、君は煙草をやらぬ様に思っていた」「ウンやるんじゃない板面なのさ。・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・じいさんは階下の自分等にあてがわれた四畳半で手持無沙汰に座っていた。「ほいたって、ほかにましな着物いうて有りゃせんがの、……うらのを笑いよるんじゃせに、お前のをじゃって笑いよるわいの。」「うらのはそれでも買うたんじゃぜ。」じいさんは・・・ 黒島伝治 「老夫婦」
・・・ 袖子は手持ち無沙汰で、お初の側を離れないでいる子供の顔を見まもった。女にもしてみたいほどの色の白い児で、優しい眉、すこし開いた脣、短いうぶ毛のままの髪、子供らしいおでこ――すべて愛らしかった。何となく袖子にむかってすねているような無邪・・・ 島崎藤村 「伸び支度」
・・・ 旅行は元来手持ち無沙汰なものである。朝から晩まで、温泉旅館のヴェランダの籐椅子に腰掛けて、前方の山の紅葉を眺めてばかり暮すことの出来る人は、阿呆ではなかろうか。 何かしなければならぬ。 釣。 将棋。 そこに井伏さんの全・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・竹村君は外套の襟の中で首をすくめて、手持無沙汰な顔をして娘の脱ぎ捨てた下駄の派手な鼻緒を見つめていたが、店の時計が鳴り出すと急に店を出た。 神田の本屋へ廻って原稿料の三十円を受取った。手を切りそうな五円札を一重ねに折りかえして銅貨と一緒・・・ 寺田寅彦 「まじょりか皿」
・・・馬鹿馬鹿しいと思うにつけて、たとい親しい間柄とは云え、用もないのに早朝から人の家へ飛び込んだのが手持無沙汰に感ぜらるる。「どうして、こんなに早く、――何か用事でも出来たんですか」と御母さんが真面目に聞く。どう答えて宜いか分らん。嘘をつく・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・けれども鞄膝掛けその他いっさいの手荷物はすでに宿屋の番頭が始末をして、ちゃんと列車内に運び込んであったので、彼はただ手持ち無沙汰にプラットフォームの上に立っていた。自分は窓から首を出して、重吉の羽二重の襟と角帯と白足袋を、得意げにながめてい・・・ 夏目漱石 「手紙」
・・・足乗せぬ鐙は手持無沙汰に太腹を打って宙に躍る。この時何物か「南の国へ行け」と鉄被る剛き手を挙げて馬の尻をしたたかに打つ。「呪われた」とウィリアムは馬と共に空を行く。 ウィリアムの馬を追うにあらず、馬のウィリアムに追わるるにあらず、呪いの・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・我輩も少々手持無沙汰である。「それじゃこうしよう、いずれ先方から返事が来る、来ればひとまず行って室を見て、それが気に入らなかったら君の方へ行くとしよう、ほかを探す事はやめにして。あの手紙を出す前に君の方の希望がどのくらいの程度だか分っていれ・・・ 夏目漱石 「倫敦消息」
出典:青空文庫