・・・ 女たちは、手持ちぶさたの様子であった。「かえる。いくらだ。」「待って。」左手に坐っていた断髪の女が、乙彦の膝を軽くおさえた。「困ったわね。雨が降ってるのよ。」「雨。」「ええ。」 逢ったばかりの、あかの他人の男女が、・・・ 太宰治 「火の鳥」
・・・あの人は、手持ぶさたげに、私の傍に立ちつくしていたのでした。「ええ。私の番になるのは、おひるごろらしいわ。ここは、きたない。あなたが、いらっしゃっちゃ、いけない。」自分でも、おや、と思ったほど、いかめしい声が出て、あの人も、それを素直に・・・ 太宰治 「皮膚と心」
・・・もらうように頼んだが、あいにくその日は六月の一日で、その日から料理屋が全部、自粛休業とかをする事になっているのだそうで、どうもお座敷を貸すのはまずい、という亭主の返辞で、それならば、君のところに前から手持のお酒で売れ残ったものがないか、それ・・・ 太宰治 「フォスフォレッスセンス」
・・・その対話がすんで了うと、みんなは愈々手持ぶさたになった。テツさんは、窓縁につつましく並べて置いた丸い十本の指を矢鱈にかがめたり伸ばしたりしながら、ひとつ処をじっと見つめているのであった。私はそのような光景を見て居れなかったので、テツさんのと・・・ 太宰治 「列車」
・・・白日のもとに見るとあれはいかにも手持ちぶさたな間の抜けたものである。 あらゆる宣伝を手持ちぶさたにする「太陽」のようなものがもし何かあるとしたら、それはどういうものであろう。こんな事を考えながらぶらぶら神保町の通りを歩いたのであった。・・・ 寺田寅彦 「神田を散歩して」
・・・ 蓄音機がぱたりとやむと、踊り子たちの手持ちぶさたを紛らすためにだれかが歌いだす。それに合わせて皆が踊り始めると途中で突然また蓄音機の音が飛び込んで来る。所かまわず歌の途中からやにわに飛び込んで来るので踊り手はちょっと狼狽してまた初手か・・・ 寺田寅彦 「沓掛より」
・・・人間の社会生活が進歩した結果として、何もしないで楽に遊んでいられる人間が多数に存在するようになると、今まで使っていた手が暇になって、全く言葉どおりに手持ちぶさたを感じる。そうかといって太平のシャンゼリゼーの大通りやボアの小道を散歩するのに、・・・ 寺田寅彦 「ステッキ」
・・・もちろん毎朝見ているものを見ないという一種の手持ちぶさたな感じはあったに相違ないが、それと同時になんだか急に世の中がのんびりしたような気持ちがないでもなかったように思う。もっとも自分のような閑人はおそらく除外例かもしれないから、まず大多数の・・・ 寺田寅彦 「一つの思考実験」
・・・自分はその後ろに小さくなって手持ちぶさたでいると、おりよくここの俊ちゃんが出て来て、待ちかねていたというふうで自分を引っ張ってお池の鯉を見に行った。ねえさん所には池があっていいと子供心にうらやましく思うていた。池はちょっとした中庭にいっぱい・・・ 寺田寅彦 「竜舌蘭」
・・・オーイ、みんな、手持ちの材料をもち寄ろう。早く橋をかけてここを渡るんだ。人筏こしらえよう。女、子供は、先に渡すんだ。そう合図をしています。 私たちは、その声に答えずにはいられません。すぐ男は肩組みして水に入り、弱いものは中にはさんで、働・・・ 宮本百合子 「幸福のために」
出典:青空文庫