・・・ 房子は全身の戦慄と闘いながら、手近の壁へ手をのばすと、咄嗟に電燈のスウィッチを捻った。と同時に見慣れた寝室は、月明りに交った薄暗がりを払って、頼もしい現実へ飛び移った。寝台、西洋せいようがや、洗面台、――今はすべてが昼のような光の中に・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・ 丁度私が其の不調和なヤコフ・イリイッチの面構えから眼を外らして、手近な海を見下しながら、草の緑の水が徐ろに高くなり低くなり、黒ペンキの半分剥げた吃水を嘗めて、ちゃぶりちゃぶりとやるのが、何かエジプト人でも奏で相な、階律の単調な音楽を聞・・・ 有島武郎 「かんかん虫」
・・・ここでは手近な絵本西遊記で埒をあける。が、ただ先哲、孫呉空は、ごまむしと変じて、夫人の腹中に飛び込んで、痛快にその臓腑を抉るのである。末法の凡俳は、咽喉までも行かない、唇に触れたら酸漿の核ともならず、溶けちまおう。 ついでに、おかしな話・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・見れば食器を入れた棚など手近にある。長火鉢に鉄瓶が掛かってある。台所の隣り間で家人の平常飲み食いする所なのだ。是は又余りに失敬なと腹の中に熱いうねりが立つものから、予は平気を装うのに余程骨が折れる。「君夕飯はどうかな。用意して置いたんだ・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・と、僕は手近の銚子を出した。「それでも」と、お袋は三味を横へおろして、「よく覚えているだけ感心だ、わ。――先生、この子がおッ師匠さんのところへ通う時ア、困りましたよ。自分の身に附くお稽古なんだに、人の仕事でもして来たようにお駄賃をく・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・紙入や銭入も決して袋物屋の出来合を使わないで、手近にあり合せた袋で間に合わしていた。何でも個性を発揮しなければ気が済まないのが椿岳の性分で、時偶市中の出来合を買って来ても必ず何かしら椿岳流の加工をしたもんだ。 なお更住居には意表外の数寄・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・詳しき説明は宇都宮時雄の君に請いたもうぞ手近なる。 いずこまで越したもうやとのわが問いは貴嬢を苦しめしだけまたかの君の笑壺に入りたるがごとし。かの君、大磯に一泊して明日は鎌倉まで引っ返しかしこにて両三日遊びたき願いに候えど――。われ、そ・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・高さ五間以上もある壁のような石垣ですから、私は驚いて止めようと思っているうちに、早くも中ほどまで来て、手近の葛に手が届くと、すらすらとこれをたぐってたちまち私のそばに突っ立ちました。そしてニヤニヤと笑っています。「名前はなんというの?」・・・ 国木田独歩 「春の鳥」
・・・かれは意にもなく手近の小枝を折り、真紅の葉一つを摘みて流れに落とせば、早瀬これを浮かべて流れゆくをかれは静かにながめて次の橋の陰に隠るるを待つらんごとし。 この時青年の目に入りしはかれが立てる橋に程近き楓の木陰にうずくまりて物洗いいたる・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・ 一番手近の、グドコーフの家から、三四人同年兵が出て行った。歩きながら交す、その話声が、丘の下までひびいて来た。兵営へ帰っているのだ。 不意に頭の上で、響きのいい朗らかなガーリヤの声がした。二人は、急に、それでよみがえったような気が・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
出典:青空文庫