・・・キッコは自分の手首だか何だかもわからないような気がして呆れてしばらくぼんやり見ていました。「一けた目がすんだらこんどは二けた目を勘定して。」と先生が云いました。するとまた鉛筆がうごき出してするするっと288と二けた目までのとこへ書いてしまい・・・ 宮沢賢治 「みじかい木ぺん」
・・・ 何年もおなじ系統の職業に従事してきたことが、短く苅った頭にも、書類挾みをもった手首の表情にもあらわれている事務官が、黒い背広をきて、私たちの入ったとは反対側のドアから入ってきた。課長と大同小異の説明をした。もし、書くもののどういうとこ・・・ 宮本百合子 「ある回想から」
・・・ カンカン火のある火鉢にも手をかざさず、きちんとして居た栄蔵は、フット思い出した様に、大急ぎでシャツの手首のところの釦をはずして、二の腕までまくり上げ紬の袖を引き出した。 久々で会う主婦から、うすきたないシャツの袖口を見られたくなか・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
どの新聞にも近衛公の写真が出ていて大変賑わしい。東日にのった仮装写真は、なかでも秀抜である。昔新響の演奏会で指揮棒を振っていた後姿、その手首の癖などを見馴れた近衛秀麿氏が水もしたたる島田娘の姿になって、眼ざしさえ風情ありげ・・・ 宮本百合子 「仮装の妙味」
・・・やっぱり、ベビイ・オルガンで教則本の三分の一ほどやったのであった。手首を下げた弾きかたで弾くことを教った。そのうち或る晩、本郷切通しの右側にあった高野とか云う楽器店で、一台のピアノを見た。何台も茶色だの黒だののピアノがある間にはさまって立っ・・・ 宮本百合子 「きのうときょう」
・・・無意識に右の手を挙げて受ける。手首がばったり切り落された。起ち上がって、左の手でむなぐらに掴み着いた。 相手は存外卑怯な奴であった。むなぐらを振り放し科に、持っていた白刃を三右衛門に投げ付けて、廊下へ逃げ出した。 三右衛門は思慮の遑・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・三郎が武術に骨を折るありさまを朝夕見ているのみか、乱世の常とて大抵の者が武芸を収める常習になっているので忍藻も自然太刀や薙刀のことに手を出して来ると、従って挙動も幾分か雄々しくなった。手首の太いのや眼光のするどいのは全くそのためだろう。けれ・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・彼は彼女の手首をとって引き寄せた。「寄れ、ルイザ」「陛下、侍医をお呼びいたしましょう。暫くお待ちなされませ」「寄れ」 彼女は緞帳の襞に顔を突き当て、翻るように身を躍らせて、広間の方へ馳け出した。ナポレオンは明らかに貴族の娘の・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
・・・ 勘次は安次の手首をとった。安次は両足を菱張りに曲げて立ち上った。五 秋三は麦の種播きに出掛けようと思っていた。が、勘次が安次を間もなく連れて来るにちがいなかろうと思われるとそう遠くへ行く気にもなれなかった。で、彼は軒で・・・ 横光利一 「南北」
・・・それ以上の運動は皆首の棒を握っている人形使いの手首の働きである。手は二の腕から先で、指が動くようになっている。女の手は指をそろえたままで開いたり屈めたりする。三味線を弾く時などは個々の指の動く特別の手を使う。男の手は五本の指のパッと開く手、・・・ 和辻哲郎 「文楽座の人形芝居」
出典:青空文庫