・・・車は電車通から急に左へ曲り、すぐまた右へ折れると、町の光景は一変して、両側ともに料理屋待合茶屋の並んだ薄暗い一本道である。下駄の音と、女の声が聞える。 車掌が弘福寺前と呼んだ時、妾風の大丸髷とコートの男とが連立って降りた。わたくしは新築・・・ 永井荷風 「寺じまの記」
・・・ チェイン・ローは河岸端の往来を南に折れる小路でカーライルの家はその右側の中頃に在る。番地は二十四番地だ。 毎日のように川を隔てて霧の中にチェルシーを眺めた余はある朝ついに橋を渡ってその有名なる庵りを叩いた。 庵りというと物寂び・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・ ひどい急坂を上る機関車のような、重苦しい骨の折れる時間が経った。 毎朝、五時か五時半には必ず寄る事になっている依田は、六時になるに未だ来なかった。 ――依田君。六時まで、三時から君を待ったが、来ないから、僕はM署へ持って行かれ・・・ 葉山嘉樹 「生爪を剥ぐ」
・・・一 下女下男を召使うは随分骨の折れることにして、使われる者は力を労し使う者は心を労す。主人の方こそ却て苦労多かる可し、下女下男にも人物様々、時としては忠実至極の者なきに非ざれども、是れは別段のことゝして、本来彼等が無資産無教育なる故にこ・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
・・・突きあたって左へ折れると平岡工場がある。こちらの草原にはげんげんが美しゅう咲いて居る。片隅の竹囲いの中には水溜があって鶩が飼うてある。 天神橋を渡ると道端に例の張子細工が何百となくぶら下って居る。大きな亀が盃をくわえた首をふらふらと絶え・・・ 正岡子規 「車上の春光」
・・・ぐるぐるひどくまわっていたら、まるで木も折れるくらい烈しくなってしまった。丁度雨も降るばかりのところだった。一人の僕の友だちがね、沼を通る時、とうとう機みで水を掬っちゃったんだ。さあ僕等はもう黒雲の中に突き入ってまわって馳けたねえ、水が丁度・・・ 宮沢賢治 「風野又三郎」
・・・ピアレスのベッドで三つに折れるの。低くてスプリングもよいから、仕事してくたびれるとそのまま体をよこにする事が出来て大いに能率的であるわけです。つる公も椅子テーブルの方が疲労が少ないから大いにそれでやると云っているが、いつその道具立ては出来る・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
市が立つ日であった。近在近郷の百姓は四方からゴーデルヴィルの町へと集まって来た。一歩ごとに体躯を前に傾けて男はのそのそと歩む、その長い脚はかねての遅鈍な、骨の折れる百姓仕事のためにねじれて形をなしていない。それは鋤に寄りかかる癖がある・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・「三河の水の勢いも小山が堰けばつい折れる。凄じいのは音ばかり」こんな歌を歌って一座はどよめく。そのうち夜がふけたので、甘利は大勢に暇をやって、あとには新参の若衆一人を留めておいた。「ああ。騒がしい奴らであったぞ。月のおも・・・ 森鴎外 「佐橋甚五郎」
・・・ まごついた夢 歩こうとするのに足がどちらへでも折れるではないか、…………… 面白くない夢 金を拾った夢。…………… 笑われた子 これは夢を題材にした私の創作の中の一つである・・・ 横光利一 「夢もろもろ」
出典:青空文庫