・・・幸にそれにはちょっとした糸がついていたので、ぐいとその糸を引くと、針はすらりと抜ける。「もう一と月からになるのですのに、ずっと私そんなでしたものですから、今日は気分はいいし、私の方からそう言って、これを言いつかったのですのに」「かま・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・謂わば、眼から鼻に抜けるほどの才智を持った男であります。普通、好人物の如く醜く動転、とり乱すようなことは致しません。やるなら、やれ、と糞度胸を据え、また白樺の蔭にひたと身を隠して、事のなりゆきを凝視しました。 やるならやれ。私の知った事・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・色が抜けるように白く、片方の眉がきりっとあがって、それからもう一方の眉は平静であった。眼はいくぶん細いようであって、うすい下唇をかるく噛んでいた。はじめ僕は、怒っているのだと思ったのである。けれどもそうでないことをすぐに知った。マダムはお辞・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・闇商売の手伝いをして、一挙に数十万は楽にもうけるという、いわば目から鼻に抜けるほどの才物であった。 キヌ子にさんざんムダ使いされて、黙って海容の美徳を示しているなんて、とてもそんな事の出来る性格ではなかった。何か、それ相当のお返しをいた・・・ 太宰治 「グッド・バイ」
・・・ 抜けるように色が白い、あるいは、飛ぶほどおしろいをつけている、などの日本語は、私たちにとって、異国の言葉のように耳新しく響くのである。たしかに、日本語のひとつひとつが、全く異った生命を持つようになって居るのである。日本語にちがいは・・・ 太宰治 「古典竜頭蛇尾」
・・・しかし、デパートの火事は下へは燃えないで、上へばかり燃え抜けるから、逃げ道さえあいていれば下へ逃げればよい。下へ逃げそこなったら頂上の岩山の燃え草のない所へ行けば安全である。白木屋の火事の時に、屋上が焼け落ちるかもしれないと言っておどかす途・・・ 寺田寅彦 「銀座アルプス」
・・・たとえば障子の切り穴を抜ける時にも、三毛だとからだのどの部分も障子の骨にさわる事なしに、するりと音もなくおどり抜けて、向こう側におり立つ足音もほとんど聞こえぬくらいに柔らかであるが、それが玉だとまるで様子がちがう。腹だか背だかあるいはあと足・・・ 寺田寅彦 「子猫」
・・・ いつのまにか宮の裏へ抜けると、かなり広い草原に高くそびえた松林があって、そこにさっきの女学生が隊を立てて集まっていた。遠くで見ると草花が咲いているようで美しかった。 腹がへったので旗亭の一つにはいって昼飯を食った。時候はずれでそし・・・ 寺田寅彦 「写生紀行」
・・・西洋人を乗せた自動車がけたたましく馳け抜ける向うから紙細工の菊を帽子に挿した手代らしい二、三人連れの自転車が来る。手に手に紅葉の枝をさげた女学生の一群が目につく。博覧会の跡は大半取り崩されているが、もとの一号館から四号館の辺は、閉鎖したまま・・・ 寺田寅彦 「障子の落書」
・・・その家は公園から田原町の方へ抜ける狭い横町であったがためだという話である。観客から贔屓の芸人に贈る薬玉や花環をつくる造花師が入谷に住んでいた。この人も三月九日の夜に死んだ。初め女房や娘と共に大通りへ逃げたが家の焼けるまでにはまだ間があろうと・・・ 永井荷風 「草紅葉」
出典:青空文庫