・・・ その寂寞を破る、跫音が高いので、夜更に里人の懐疑を受けはしないかという懸念から、誰も咎めはせぬのに、抜足、差足、音は立てまいと思うほど、なお下駄の響が胸を打って、耳を貫く。 何か、自分は世の中の一切のものに、現在、恁く、悄然、夜露・・・ 泉鏡花 「星あかり」
・・・ その背後より抜足差足、密に後をつけて行く一人の老媼あり。これかのお通の召使が、未だ何人も知り得ざる蝦蟇法師の居所を探りて、納涼台が賭物したる、若干の金子を得むと、お通の制むるをも肯かずして、そこに追及したりしなり。呼吸を殺して従い行く・・・ 泉鏡花 「妖僧記」
・・・ その音がし始めると、信子は仕事の手を止めて二階へ上り、抜き足差し足で明り障子へ嵌めた硝子に近づいて行った。歩くのじゃなしに、揃えた趾で跳ねながら、四五匹の雀が餌を啄いていた。こちらが動きもしないのに、チラと信子に気づいたのか、ビュビュ・・・ 梶井基次郎 「雪後」
・・・そして餌をねらう猛獣のような姿勢をして抜き足で出て来て、いよいよ飛びかかる前には腰を左右に振り立てるのである。どうかすると熊笹の中に隠れて長い間じっとしていると思うと、急に鯉のはね上がるように高くとび出して、そしてキョトンとしてとぼけた顔を・・・ 寺田寅彦 「ねずみと猫」
・・・草鞋を爪立てるように、抜足をするように、手拭に遠慮をするように、廻った。怖そうにも見えた。面白そうにもあった。 やがて爺さんは笛をぴたりとやめた。そうして、肩に掛けた箱の口を開けて、手拭の首を、ちょいと撮んで、ぽっと放り込んだ。「こ・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
・・・私は生きもの同士が感じ合う直覚で、ひとりでに抜き足になった。そして後から廻って近よった。「どうしたの、なあに?」「文鳥が逃げちゃった。そこにいるのに」 成程! 籠の中は一羽だ。つい鉢前の、菊の芽生えの青々とした低いかげにもう一羽・・・ 宮本百合子 「春」
・・・そこで更闌けて抜き足をして、後ろ口から薄暗い庭へ出て、阿部家との境の竹垣の結び縄をことごとく切っておいた。それから帰って身支度をして、長押にかけた手槍をおろし、鷹の羽の紋の付いた鞘を払って、夜の明けるのを待っていた。 討手として阿部・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・人に見棄てられた家と、葉の落ち尽した木立のある、広い庭とへ、沈黙が抜足をして尋ねて来る。その時エルリングはまた昂然として頭を挙げて、あの小家の中の卓に靠っているのであろう。その肩の上には鴉が止まっている。この北国神話の中の神のような人物は、・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
出典:青空文庫