・・・その時の私の心持は『罪と罰』を措いて直ちにドストエフスキーの偉大なる霊と相抱擁するような感に充たされた。 それ以来、私の小説に対する考は全く一変してしまった。それまでは文学を軽視し、内心「時間潰し」に過ぎない遊戯と思いながら面白半分の応・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・永遠の恋、死に打ちかつ抱擁、そうしたイデーはもう「この春の流行」ではないとでも思っているのであろうか。 ヤンガー・ゼネレーションのこうした気風は私を嘆かしめる。私は彼らに時代の熱風が吹かんことを望まずにはおられぬ。 ・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・ 母親の抱擁、頬ずり、キッス、頭髪の愛撫、まれには軽ろい打擲さえも、母性愛を現実化する表現として、いつまでも保存さるべきものである。おしっこの世話、おしめの始末、夜泣きの世話、すべて直接に子どもの肉体的、生理的な方面に関係のあるケヤーは・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・「私は、私の仇敵を、ひしと抱擁いたします。息の根を止めて殺してやろう下心。」これは、有名の詩句なんだそうだが、誰の詩句やら、浅学の私には、わからぬ。どうせ不埒な、悪文学者の創った詩句にちがいない。ジイドがそれを引用している。ジイドも相当に悪・・・ 太宰治 「鬱屈禍」
・・・更にいう、愛とは、肉体の抱擁である。いずれも聞くべき言ではある。そうかも知れない。正確かも知れない。けれども、もう一つ、もう一つ、何か在るのだ。いいか、愛とは、――おれにもわからない。そいつが、わかったら、な。」などと、大事もくそも無い。ふ・・・ 太宰治 「作家の像」
・・・君が若し私を殴ってくれなかったら、私は君と抱擁する資格さえ無いのだ。殴れ。」 セリヌンティウスは、すべてを察した様子で首肯き、刑場一ぱいに鳴り響くほど音高くメロスの右頬を殴った。殴ってから優しく微笑み、「メロス、私を殴れ。同じくらい・・・ 太宰治 「走れメロス」
・・・ 公園の噴水の傍のベンチに於ける、人の眼恥じざる清潔の抱擁と、老教授R氏の閉め切りし閨の中と、その汚濁、果していずれぞや。「男の人が欲しい!」「女の友が欲しい!」君、恥じるがいい、ただちに、かの聯想のみ思い浮べる油肥りの生活を! 眼・・・ 太宰治 「HUMAN LOST」
・・・やり前の小川を眺めていたとき丑尾さんが自分の正面に立ってしばらく自分の顔を見詰めていたようであったが、真に突然に、その可愛い両腕を左右にぱっと拡げたと思うといきなり飛びつくようにして、しっかりと自分を抱擁した、そのとき自分がそのままにじっと・・・ 寺田寅彦 「重兵衛さんの一家」
・・・日本の人々が皆感激の高調に上って、解脱又解脱、狂気のごとく自己を擲ったごとく、我々の世界もいつか王者その冠を投出し、富豪その金庫を投出し、戦士その剣を投出し、智愚強弱一切の差別を忘れて、青天白日の下に抱擁握手抃舞する刹那は来ぬであろうか。あ・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・――アンネットが確実に彼のものとなった後、彼は、アンネットの誠実な、熱烈な純一を愛する心を無視した一つずつの肉的な抱擁が、どんなにアンネットの霊魂を傷つけるかまるで考え得なかったのであった。アンネットは、大きな、死ぬばかりの苦痛を味った。・・・ 宮本百合子 「アンネット」
出典:青空文庫