・・・嘘と思うなら、かりにいっさいの天才英雄を歴史の上から抹殺してみよ。残るところはただ醜き平凡なる、とても吾人の想像にすらたゆべからざる死骸のみではないか。 自由に対する慾望は、しかしながら、すでに煩多なる死法則を形成した保守的社会にありて・・・ 石川啄木 「初めて見たる小樽」
・・・このようなわけで東京はかならず武蔵野から抹殺せねばならぬ。 しかしその市の尽くる処、すなわち町外ずれはかならず抹殺してはならぬ。僕が考えには武蔵野の詩趣を描くにはかならずこの町外れを一の題目とせねばならぬと思う。たとえば君が住まわれた渋・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・でさえ何行かを抹殺されている。その後のプロレタリア文学に到っては、一層多くの抹殺なくしては、戦争を描き得ない状態にある。そして、それは正しく、戦争を反映した文学の製作が非常に困難であることを物語るものであろう。・・・ 黒島伝治 「明治の戦争文学」
・・・もちろん当局でもそのへんに遺漏のあるはずはないが、しかし一般世間ではどうかすると誤った責任観念からいろいろの災難事故の真因が抹殺され、そのおかげで表面上の責任者は出ない代わりに、同じ原因による事故の犠牲者が跡を絶たないということが珍しくない・・・ 寺田寅彦 「災難雑考」
・・・をすべて迷信という言葉で抹殺する事がすなわち科学の目的であり手がらででもあるかのような誤解を生ずるようになった。これこそ「科学に対する迷信」でなくて何であろう。科学の目的は実に化け物を捜し出す事なのである。この世界がいかに多くの・・・ 寺田寅彦 「化け物の進化」
・・・生命の物理的説明とは生命を抹殺する事ではなくて、逆に「物質の中に瀰漫する生命」を発見する事でなければならない。 物質と生命をただそのままに祭壇の上に並べ飾って賛美するのもいいかもしれない。それはちょうど人生の表層に浮き上がった現象をその・・・ 寺田寅彦 「春六題」
・・・し、抹殺する事にのみ興味をもつ「批評家」の批評を受けなければなるまい。しかしあらゆる「精密科学」はその根底において、ちょうどかくのごとき方法を取って進んで来たものである。すべてがそのはじめは不精密なる経験の試験的整理を幾重となく折り返し繰り・・・ 寺田寅彦 「比較言語学における統計的研究法の可能性について」
・・・試みにこれらのへんな句やいやな句を抹殺してそれを美しいやさしいさびしおりにみちた句ばかりに作り変えることができたとする。そうしてみた後にわれわれは、事によると、せっかくのその修正の成果が意外にも単調一律なよそ行きの美句の退屈なる連鎖になりお・・・ 寺田寅彦 「連句雑俎」
・・・今や Dmocratie と Positivisme の時勢は日一日に最後の美しい歴史的色彩を抹殺して、時代に後れた詩人の夢を覚さねば止むまいとしている。 * 安藤坂は平かに地ならしされた。富坂の火避地には借家・・・ 永井荷風 「伝通院」
・・・融通のきかぬ一本調子の趣味に固執して、その趣味以外の作物を一気に抹殺せんとするのは、英語の教師が物理、化学、歴史を受け持ちながら、すべての答案を英語の尺度で採点してしまうと一般である。その尺度に合せざる作家はことごとく落第の悲運に際会せざる・・・ 夏目漱石 「作物の批評」
出典:青空文庫